タイ鉄道新時代へ

【第1部/第13回】進まぬ新線建設、悪化する経営

1960年代の「開発」の時代以降、タイの鉄道は政府の交通政策からは事実上切り離され、常に冷や飯を食わされ続けた。時はモータリゼーションの世。サリット内閣などが進めた自動車優遇策に、いつも翻弄されていた。産業の発展や人口の増加から新線の建設が求められても、東北部本線のバイパス線ケンコーイ~ブワヤイ間が1967年に開通したのを最後に、新たな予算措置が講じられることはなかった。この間、国鉄の運転士や技術者たちは古くなった車両の修理・改善を進めながら、再び陽の当たる時が来るまでじっと耐えるほかはなかった。連載13回目。今回は、「開発」の時代以降の新線建設等について。(文・小堀晋一)

1941年策定の「全国鉄道建設計画」に明記をされながら、予算化が図られることもなく事実上の事業打ち切りとなったのが、①北部本線デンチャー~チェンライ間、②東北部本線ブワヤイ~ナコーンパノム間、③北部スパンブリー~メーソート間の新線3区間だった。以降、タイで新線計画が具体化されることはなく、鉄道空位の時代がしばらく続いた。その詳しい経緯については連載第9回で書いた。タイで再び鉄道建設が始まったのは80年代末期のこと。空白の期間は実に20数年に及んだ。

22年ぶりの新線となったのが、東部本線の主要駅チャチューンサオから南に分岐し、ラヨーン県サッタヒープに至る支線、東部臨海線だった。ベトナム戦争が激しくなった70年代当時、サッタヒープには米軍の軍事施設があり、東北部本線を結んでラオス北部に軍事物資を送り込む必要があった。また、チョンブリ県にバンコク港を超す新深港の建設計画が持ち上がっていたことも、新線建設を後押しした。ところが、財源のめどが付かず、ようやく着工となったのは81年になってから。工期には8年を要し、開通したのは89年7月のことだった。全長は135km。

次いで開通したのが、新深港レムチャバン港とシーラチャー分岐駅を結ぶ全長10kmほどの貨物専用線だった。同港が開港したのは前年の91年。以降、海上コンテナ輸送の一大基地としてレムチャバン港は機能し、同支線の貨物輸送がそれを足元から支えた。95年に開通した貨物専用線クローンシップカーオ~ケンコーイ間も同様の趣旨から建設が進められた。従来、東北部及び北部からのコメや木材といった輸出品は、全てバンコクを経由して海上コンテナ基地に送られていた。このため東北部と北部の分岐点となるバーンパーチーとバンコクを結ぶ区間は混雑が特に激しく、都心部の渋滞を深刻化させていた。これを一気に解消させる狙いで建設されたのが迂回路となる当該貨物専用線(81km)だった。こうした経緯から、現在もこの区間では原則として旅客列車の運行は行われてはいない。

同じ95年に開通したラヨーン県カオチーチャン~マープタープット間は、タイの第5次国家経済社会開発計画(1982年~86年)に基づき計画された。第6次計画(87年~91年)でも最優先課題とされた同開発計画は、マープタープット地区に石油化学産業が集積した工業団地やコンビナートを建設し、タイ随一の石油化学基地とするという内容だった。日本から多額の円借款が供与され、多くの外資系企業やタイの財閥系企業が投資を加速。新線を経由して大量の化学工業品が輸送され、タイ国内と海外とを結んだ。この路線も同様に貨物専用線だった。

このように、80年代末から再び始まった新線の建設は、それ以前とは完全に趣を変えたものとなった。もっぱら、工業化、産業集積のための輸送手段として捉えられていた。この間、バンコクを中心に一般の旅客鉄道区間でも、将来の都市鉄道の需要を見越してレールの複線化や三線化がわずかながらも進められたが、都市部の交通政策や渋滞の解消に目途が立たないことから効果を発揮できずにいた。その他、地方でも新線建設が具体化することはなかった。

新線建設が進まないだけでなく、経営も火の車だった。タイ国鉄は51年、世界銀行から借款を受ける際に改組を求められ、それまでの政府直轄事業から国営企業に経営形態を変えた。経営の効率化を図るのが目的だった。この結果、当初こそは黒字が続いたものの、73年のオイルショックを機に赤字に転落。以後、現在に至るまで改善は見られていない。その大きな原因の一つが、異常なまでに低く据え置かれた料金設定だった。世界銀行は借款供与時、自由な料金設定権の確保、すなわち適正水準への運賃引き上げを要求。ところが、タイの鉄道事業は国民からの反発を警戒し、歴代政権や有力政治家が介入して低水準に据え置く措置を繰り返してきた。一部に国鉄に対し補助金が交付されたこともあったが、大勢に影響はなかった。

低料金設定は特にエアコンのない3等車で顕著で、例えばバンコク西方のウォンウェンヤイ駅を発車したメークロン線の普通列車は、31km離れた水産の街マハーチャイまで現在でも1人10バーツで運ぶ。ターチン川にかかる渡し舟の乗船賃は3バーツ。対岸のバーンレームからメークローンまで34kmも同様に1人10バーツ。つまり、往復したところで運賃収入は160円ほどにしかならない。

このため、タイ国鉄の赤字は年々増え続け、2014年3月末現在、約1100億バーツ(約3800億円)もの累積債務を抱えている。利用客のうち8割が運賃の安い3等車の乗客。だが、そこから得られる運賃収入は全体の売上高の10%ほどしかない。国鉄も比較的高運賃を請求できる快速列車や急行列車を増便させるほか、ダイヤの見直しや貨物輸送費の引き上げを実施するなど対策を講じているものの、抜本的な解決には至っていない。

赤字経営は設備投資にも影響を与えるようになった。戦後の復興期、豊かなコメを武器に海外から機関車や客車の調達を進めたタイ国鉄だったが、90年代になると財政悪化が深刻となり新規車両の導入が困難となった。このため国鉄では、海外の中古車両に照準を当て、調達を進めることにした。その主要な提供先が他ならぬ日本だった。日本では1872年の新橋~横浜間の開業時に採用した3フィート6インチ(1067mm)の狭軌が現在も在来線で使用されている。これに対しタイで採用されている軌道はメートル軌(1000mm)。国際的な標準軌(1435mm)より日本の軌間に近く、改造が容易な点が考慮の対象となった。堅牢で壊れにくい点も評価された。

その第1号は97年、西日本旅客鉄道(JR西日本)から供与された。ディーゼルカー26両と客車28両の計54両。バンコク近郊で乗客の大量輸送などに当たった。2004年にもJR西日本から同様に車両の供与があった。この時に譲渡されたのは寝台車12両と客車8両の計20両。このうち寝台車は日本国内で運行していたブルートレインの外装と内装のまま、タイ国鉄の長距離列車に転用された。寝台の個室や併設された洗面所のノブなどで「押す」などの日本語を目にしたことのある人もいるだろう。

このように、タイの鉄道は自動車優遇策による冷遇や経営の悪化などから、この半世紀あまり常に苦痛を強いられてきた。高規格道路の建設や新たな航空路の開設を尻目に、いつも悔しい思いを持ち続けてきた。こうした中で復権のきっかけとなったのが新たな都市交通政策の出現、すなわち都市鉄道の建設だった。(つづく)

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