タイ鉄道新時代へ

【第38回(第2部第20回)】南部本線スンガイコーロックへの旅その1

タイ国鉄の中でも比較的開発の早かったのがマレー半島を南下する南部本線だ。かつてはチャオプラヤー川西岸のトンブリ駅を起点に、次いでラーマ6世橋が完成するとフアランポーン(バンコク駅)とを結ぶ国際路線として多くの住民や旅行者らの足となってきた。だが、タイ政府が当初、整備を進めようとしたのは現在運行するバンコク~バタワース間(マレー半島西回り線)ではなく、半島の東海岸を南下するバンコク~スンガイコーロック間からマレーシアに至るルートだった。今では爆弾テロが相次ぐようになったタイ深南部。年末の某日、彼の地を単独訪ねた。(文と写真・小堀晋一/デザイン・松本巖)

フアランポーン駅発13時ちょうど。スンガイコーロック行き「快速171号」がこの日のお目当ての列車だった。牽引するディーゼル機関車を先頭に全19両。ひときわ長い編成は、タイでも最長を誇る同駅の8番・9番ホームでも収容ぎりぎり。バンコクを発し、約22時間かけて行く長旅の総延長はタイ国内鉄道網最長の1159.04km。それを二等寝台、三等、食堂車、貨物車とバラエティ豊かな連結車両が飾っていた。

記者(筆者)が乗車したのは後ろから2両目の15号車両(車両ナンバーは必ずしも連結順ではない)。二段ベッドが上の棚から降りてくるタイプの冷房付き二等寝台だ。乗車券の発売開始1週間目に買い求めに行ったのだが、すでに人気の下段は予約で売り切れ。仕方なく幅の狭い上段での我慢と相成った。列車は定刻通りに出発。約5時間かけて途中駅の中部プラチュワップキーリーカン県フアヒンに到着すると、一路半島南へと進んでいった。

南部最大の都市ソンクラー県ハートヤイ。時刻は翌朝6時半を回ろうとしていた。この分岐駅(ハートヤイ・ジャンクション)に停車、一部車両を切り離して新編成で再出発するころになると付近一帯は一気にイスラム色が強くなる。パッターニー県、ヤラー県、ナラティワート県のタイ深南部3県だ。住民の8割以上がイスラム教徒、話す言語もマレー語の方言というこの地域は、仏教国タイの中で取り分け特徴的であり、旅行者にとっては異質にも映る。

旅情たっぷりの穏やかさが列車内から消え去ったと感じられたのも、ハートヤイ発後すぐのことだった。一気に乗客が減った車内。1両に5人も乗っていればいいところへ、連結部のドアを開けて入って来たのは迷彩色に身を包んだタイ王国陸軍の兵士たちだった。手には自動小銃。口は真一文字で誰も一言も発しない。不審者警戒のためとはいえ、見えないサングラスの奥の目は異様で不気味だ。声を掛けるのさえはばかられた。

車窓から見る眺めもイスラム一色だ。あちこちに点在するモスク。街行く人々も、イスラム帽にヒジャブ(女性が顔を覆うスカーフ)姿がほとんど。駅に停車する度に乗り込んでくる弁当売りの荷ももっぱらマレー料理と、いつの間にか国境を渡ったかの錯覚が最後まで拭えなかった。

列車は3県の主要駅、パッターニー、ヤラー、タンヨンマットに順に停車した後、約30分遅れで終着駅スンガイコーロックに到着した。ハートヤイからだけでも4時間の小旅行。緊張の激務に腹を空かせたのか、同乗していた陸軍兵士たちは駅構内にある食堂に一目散に駆け込み、早い昼食を取っている。折り返しの列車に乗車するためか。テーブルの上には手にしていた自動小銃が無造作に置かれていた。

既に何度か伝えているが、バンコクからマレー半島を南下する鉄道敷設計画はタイ、マレーシア両国内で古くから存在していた。南部マレーを植民地支配するイギリスに先んじて、付近一帯の影響力を握ろうという思惑のタイ政府。一方、鉄道敷設により貿易を拡大したい英政府のお抱え商人たち。すでに20世紀初めには半島東海岸を経由してシンガポールの対岸ジョホールバルに鉄道を敷く構想が官民を挙げて存在していた。

具体的な建設への動きが始まったのは1910年を過ぎたころだった。その10数年前には、500年以上続いたイスラムの国パッターニー王国が仏教国タイ王国に編入。スルタン制も廃止され、新たに深南部3県が設置されていた。鉄道建設はタイ政府にとって植民地時代に生き残る苦渋の選択に相違なかったが、一方で現地の人々にとっては同化政策にしか映らなかった。

半島東海岸を経由してバンコクからシンガポール行きの直通鉄道が完成したのは、それから約20年後のことだ。太平洋戦争中に一時、旧日本軍によってレールが徴用され泰緬鉄道建設のための建設資材とされたが、それも戦後になって復旧がされた。バンコクとマレーシア北東部の港湾都市トンパットとの間には特急「タークシン号」が運行され、多くの乗客や物資が運ばれた。沿線は活況に沸いた。

大きな転機となったのは50年代後半から60年代、70年代初めにかけて激しくなった深南部での分離独立運動だった。戦後、教育や就業機会から取り残されたこれらの地域の人々。タイ政府は同化ばかりに重きを置き、古くからの住民の暮らしを顧みることはあまりしなかった。こうして次第に先鋭化していったグループが解放組織を名乗るようになり、列車や公共施設などを狙った爆弾テロが横行するようになった。

タイのプリンス・オブ・ソンクラー大学によるとその被害は2004年からの約10年間だけでもテロ発生件数1万5000件超、死亡者は6000以上に上る。昨年6月にも深南部一帯で連続爆弾事件があり、多数が負傷した。こうしたことから、タイとマレーシアを結ぶ直通国際列車は1973年までに運行中止を余儀なくされ、現在へと至っている。運行再開の目途は立っていない。(つづく)

 

 

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