タイ鉄道新時代へ

【第1部/第4回】戦争に翻弄された鉄道建設

立憲革命によって実権を握った人民党政府は、絶対王政のカムペーンペット親王が進めた従来の鉄道一辺倒の交通政策を転換し、1936年、タイで初めてとなる「道路建設18年計画」をまとめた。タイに本格的な道路網の時代が来るかに思われた。ところが、時は欧州や東アジアなど世界各地で軍国主義が台頭、戦争の時代を迎えていた。この時期、タイはどのように戦禍を逃れ、どう独立を維持したのか。また、鉄道はどのような役割を担ったのか。まずはその導入部。戦争に翻弄されたタイ鉄道史の前編。(文・小堀晋一)

タイ初の本格的な道路計画「道路建設18年計画」は、1936年から向こう18年間のうちにタイ全土で総延長1万5000kmの道路網を整備しようという壮大な内容だった。この時点の国内舗装道路の総延長はわずかに200km余り。ほぼ同じ時期にビルマで約9000km、仏印でも約2200kmだったことから見ても、いかにタイの道路整備が遅れていたかが分かる。

新政権は、国の安全保障や国力向上の観点に立って、首都バンコクから全県に向けて道路のみで物資や兵士、商材が輸送できる仕組みを作り上げようと考えた。この結果、まず全ての県に対し、隣接する県とを結ぶ道路の建設を急ぐよう指示を出した。県同士が同じ規格道路で結び合えば、理論上はタイ全土が道路網で満たされることになる。雇用も生まれ、経済も活性化すると考えられた。

ところが、実際は計画どおりには進まなかった。まず、世界恐慌から立ち直ったばかりで財源が十分には確保ができなかった。道路建設を指示する技術者も圧倒的に少なかった。レール部だけを整備すればよい鉄道とは異なり、自動車道路は十分な道幅を要した。鉄道は発着地を最短距離で結ぶことを中心に考えたが、道路は途中の都市や商業地を経由するために迂回するなど地理的制約も受けやすかった。

予算が少ないことで、舗装が後回しにされる建設現場も少なくなかった。舗装路として整備しなければ自動車の劣化も早く、高速での走行もできなかった。このため、せっかく整備がされた道路であっても、利用は予想以上に伸びなかった。利用頻度が上昇しなければ、道路を使った輸送費も高止まりとなって、さらに利用が減る悪循環も生じていた。

その一方で、鉄道は〝冬の時代〟が続いていた。新線建設は見合わせが相次ぎ、1930年に策定された「第3次鉄道建設計画」は棚上げとされた。東北部本線ノーンカーイ線の延伸区間がコンケーン-ウドーンターニー間に短縮されながらも実施に移されることが決まった以外に、当面の新たな鉄路の開拓は先送りされた。仏領ラオスへの初めての国際鉄道として期待が持たれた東北部本線ナコーンパノム線も32年に凍結が決まった。

タイで初めての鉄道として1893年に開業、首都圏住民の足となっていた民営鉄道パークナーム線の免許更新も遡上に上げられた。人民党新政府は36年、鉄道事業の国家一元化を目指す方針から運営会社に事業の買い上げを打診。ところが、提示された買収価格が極めて低かったことから会社側が抵抗を示し、難航が続いた。結局、更新不許可を盾に買収を優位に進めようとする新政府が押し切り、時価を大幅に割る価格での売却が決まった。

38年には、新たに南部本線の支線となるスラーターニー-ターヌン間の新線建設が計画されたが、自動車網の早期整備を目指す財政当局が難色を示し、当面の見合わせが固まった。ターヌンは、プーケット島の対岸パンガー湾に臨む要衝地。この時の見合わせが響き、タイ最大の観光地プーケットに向かう鉄道は現在に至るまで全通していない。スラーターニーからわずかに27km内陸のキーリーラットニコムで建設は止まったままだ。

ピブーンソンクラーム大将が首相に就いた1938年は、欧州戦線や中国戦線から聞こえる戦争の足音が次第に大きくなっていく時期でもあった。西に英連邦自治領ビルマ、東に仏印(カンボジア、ラオス)と接するタイでは、有事の際の国作り・体制固めに余念がなかった。国名をシャムからタイに変え、タイ文字を改変し、国内経済を牛耳っていた中華系国民のタイ同化政策を強硬に進めた。その一方で見直しがされたのが、兵士や物資を国境の地に安定的に輸送する鉄道の存在だった。鉄道冬の時代は皮肉にも戦争によって払拭され、国力の象徴として再び注目を集めるようになった。

39年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、英仏両国はドイツに戦線布告、第2次世界大戦の火蓋が切られた。英仏は欧州戦線に兵力を大量注入する必要から、東南アジアではできるだけ平穏を保ちたかった。この時にタイ政府との間で進められたのが、国境画定のための不可侵条約の締結交渉だった。交渉は難航を極めたが40年6月に妥結。これまで曖昧だったタイの国境が正式に画定した。ところが、締結直後にパリが陥落すると、ピブーンソンクラーム首相は好機に乗じようと条約を破棄。傀儡政権ヴィシー政府に対し、20世紀初頭にフランスに割譲したメコン側右岸のラオス・ルアンパバーン一帯とカンボジア北西部のバッタンバン、シエムリアプの両州の回復を要求したのだった。

だが、フランスも応じるわけにはいかない。こうして引き起こされたのが「タイ仏国境紛争」だった。紛争は結局、武力の衝突となり、40年12月から翌年にかけてタイ東部海域やカンボジア領内を中心に戦闘が繰り返された。タイ軍も健闘はしたが、近代兵力を具備した仏印軍の前に勝ち目はなかった。コーチャン島沖海戦は、戦力の半分を失う大惨事で終わった。そこに仲裁に入ってきたのが、枢軸国ドイツの求めに応じて北部仏印(ベトナム北部)に進駐していた日本軍だった。

日本軍は停戦を求め、東京において停戦会議を開催。「東京条約」を両軍に飲ました。形式的には均衡を図る内容とされたが、メコン川右岸とカンボジア北西部をタイ領と認定するなど実質的にはタイ側の勝利は明らかだった。南方進出を画策し、タイ政府を取り込もうとする日本軍の意図も明白だった。一方、ピブーンソンクラーム政権は日本軍のそうした狙いを十分に理解しながらも、この対仏戦の〝勝利〟を国威発揚に利用しようと考えた。バンコクの高架鉄道BTSアヌサワリー駅前に今もそびえるビクトリー・モニュメントは、この時、ピブーンソンクラーム首相によって考案、建設された。

仏印との国境紛争が一段落すると、タイ政府は「全国鉄道建設計画」を全国に発表した。地方と地方を結ぶ幹線を新たに複数敷設し、今後四半世紀のうちに国内鉄道網を2倍強の総延長6000kmにするのが骨子だった。この中には、東部本線アランヤプラテートから東京条約で回復したカンボジア北西部を経て、プノンペン、サイゴンに乗り入れる国際鉄道も含まれていた。メコン川右岸ルアンパバーンにもルーイからの新線が乗り入れをする計画だった。

地方と地方を結ぶ幹線の新設計画は、今日で言う「東西回廊」や「南北回廊」の経済構想に重なり彷彿とさせる。立憲革命前までの鉄道構想がバンコクを拠点とした放射状だったのに対し、革命後の新構想は格子状に都市と都市を結ぶとする点が特徴とされた。世界大戦の最中、西方一帯を大英帝国が支配、東方からは新たに日本軍の進駐が始まるという状況下で、タイ政府はしたたかながらも、国家国力の基礎となる鉄道の敷設を着実に進めていった。(続く)

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