タイ鉄道新時代へ

【第1部/第7回】コメが後押しした戦後復興

対英米宣戦布告をし、日本やドイツとともに枢軸国として第2次世界大戦に臨んだタイだったが、戦後は一転して同盟国の一員に就くこととなった。とはいえ、戦時中に連合国軍により受けた爆撃は王国の鉄路を大きく損傷し、北部本線バンコク~ピサヌローク間、東北部本線バンコク~コーラート間、東部本線バンコク~アランヤプラテート間でわずかに営業が再開できるに過ぎなかった。車両の保全管理を一元的に担ってきたバンコクのマッカサン工場も大破し、各地の信号設備は部品の不足から一部で稼働をするだけだった。まさに瀕死の状態と言ってよかった。こうした中、タイの鉄道はどのように復興し、どのようにして拡大・発展を遂げたのか。連載第7回は、戦争で被災したタイ王国鉄道の復興についてお伝えする。(文・小堀晋一)

「世界のコメ倉庫」インドシナ半島。中でもタイは有数のコメ生産国であり輸出国でもある。インラック前政権の事実上のコメ買い上げ策によって2年前に輸出トップの座を明け渡したが、再び首位の座に帰り着くのは確実な見通しとなっている。これとよく似た光景が大戦終戦時にも見られた。世界は慢性的な食糧不足に陥っていた。戦前のコメ生産・輸出国のビッグ3は、タイ、仏印(ベトナム)、ビルマ。世界のコメ市場の中枢を占めていた。ところが、仏印は終戦直後の「ベトナム8月革命」の影響等で市場が混乱、産業は大きく落ち込んでいた。ビルマも戦時中の日本軍による侵攻作戦(インパール作戦など)により国土が荒廃、コメの生産量そのものが低迷していた。

こうした状況下でタイだけは戦前からの状態を維持していた。タイのコメ生産地は東北部地方と北部地方に集中している。これらの地域は大きな戦禍にも見舞われず、生産地はおおむね堅調な状態を保っていた。輸出にも余力があった。これに目を付けたのが英米の国々だった。連合国陣営はタイ政府に働きかけ、コメの供与を求めた。当初は無償で、後に有償で。ところが、産地からバンコクの輸出港に搬送するまでの鉄道車両がない。当時、稼働可能だった車両は復興に優先的に充てられ、コメを運ぶ余力はなかった。そこで、連合国側は蒸気機関車や貨車といった輸送手段の現物を供与するのと引き換えにコメの優先割り当てを求めた。物流の確保を急ぎたかったタイ政府もこれに応じ、コメとの物々交換が実現した。

こうしてタイ国内には、さまざまな鉄道車両が持ち込まれることになった。戦時中に日本軍が英領マレーなどから接収した蒸気機関車や貨車のほか、日本軍が泰緬鉄道用に本土から持ち込んだ日本製の機関車、タイの戦後復興のため連合国が新たに製造したものもあった。中でもひときわ注目を集めるのが、C56形、C58形といった日本の重工メーカーが製造した国産蒸気機関車だ。C56形は開戦直前に製造された160両のうち90両が泰緬鉄道向けに輸送されている。このうち終戦後も稼働可能だった46両がタイ政府に引き渡された。C58形も4両が渡り、終戦後のタイのコメ輸送を担った。

※C56形のうち31号機と44号機はタイ国鉄で活躍した後、1979年に日本に「帰国」している。現在、31号機は東京・靖国神社に展示されているが、44号機は静岡県・大井川鐵道で現役機関車として活躍中。今でもその雄姿を見ることができる。

世界の食糧不足はその後、勃発した中国の国共内戦(1946年~)や、ベトナムでのインドシナ戦争(同)、朝鮮戦争(50年~)等によってなおも続いた。このため連合国から受け継いだ国連が窓口となり、タイに対し継続したコメの拠出を要求。政府もこれに応じ、引き換えに多くの鉄道車両がタイに供与されることになった。持ち込まれた車両の多くは、アメリカが軍需向けに生産拠点とした日本から送り届けられたものだった。こうしてタイの鉄道輸送力は劇的な回復を見せた。終戦時に4万トン余りだったコメの輸送総量は5年後には10倍に膨らみ、旅客、貨物の総輸送量も10年余り後にはそれぞれ2~4倍にも達した。タイ国内の物流網も整備が進み、これまでとは逆にバンコクから地方に向けて建築資材やエネルギー物資が運ばれるようになった。

鉄道車両の見通しは立ったものの、線路や信号など鉄道施設も合わせて修繕を急がなくてはならなかった。ところが、戦争で疲弊した国庫にその余力はない。そこでタイ政府は世界銀行に対し戦後復興のための借款を求めることにした。だが、世界中が復興に立ち上がっている中で、満額回答は期待できるはずもない。鉄道分野の総要求額2000万ドルに対し、認められたのはわずか300万ドルでしかなかった。マッカサン工場の修繕と部品の調達費用、信号設備の補修などが優先対象とされた。一方でタイ政府は、国際社会の求めに応じ鉄道機構の見直しにも着手した。政府直轄下だった鉄道局を「タイ国有鉄道」に改組。国営企業として財務の健全化を目指した。戦前に策定した「全国鉄道建設計画」の見直しにも着手。限られた原資で効率よく国土の整備が進むよう、52年には優先する新線3区間を選出(略年史参照)、集中的に資本を投下した。このうち、東北部本線ケンコーイ~ブアヤイ間は、コーラートを経由する従来のルートが山越えの〝難所〟となっていたことから、東北部とを結ぶバイパス線としての機能が期待された。同路線は戦時中、ピブーン首相が一時的に遷都を検討したペッチャブーンにも近く、高い優先度となった。

同じ東北部本線のウドーンターニー~ノーンカーイ間は別の理由から建設が急がれた。当時、北ベトナムを支配していたベトミンがラオス北部ビエンチャン近郊に侵入。赤化の危険が俄かに増すことになった。反共政策を推し進めていたピブーン政権はアメリカに援助を打診。インドシナ半島での共産主義勢力拡大に懸念を示したアイゼンハワー大統領が400万ドルに及ぶ巨額の資金援助を決めたのに加え、タイ~ラオス間のための鉄道車両の供与や施設整備も実施。こうして53年に建設が始まったばかりの同区間の建設は1年数カ月の突貫工事を経て完成することとなった。一方、南部本線スラーターニー~ターヌン間は、プーケット島へ至る玄関口として建設が始まった。マラッカ海峡を経ずにインド洋に出られる数少ない戦略拠点で、観光以外の目的も大きかった。ところが、財政難が事業の継続に待ったをかけた。結局、同線はキーリーラットニコムまでの一部区間だけが開業し、今日まで事実上、放置されている。

このほか、54年には新たに北部本線のバイパス線となる中部ノーンプラドゥック~スパンブリー間も着工している。従来、首都バンコクから北部、東北部に向かう鉄道はチャオプラヤー川東岸を北上していた。南部から北方に向かう鉄道はバンコクを経由し、同川にかかるラーマ6世橋を渡らなければならなかった。ところが戦時中の連合軍による爆撃で6世橋が大破、交通が遮断されると、俄かに高まったのが西岸を北上するバイパス線の建設だった。将来はスパンブリーを経てロッブリーから北部本線に接続するルートも考案された。そのまま北上し、ターク県メーソートからミャンマーに至る国際鉄道網の構想もあった。

タイ政府によるこうした新線建設はいくつかの区間で進められたものの、全体で見ると必ずしも計画どおりには進んでいなかった。最大の要因が予算の不足だった。世界銀行は55年にも第2次借款の供与を行ったが、対象はディーゼル機関車の購入や自動連結器の導入、レールの交換等に限定され、新線の開発費用は国庫負担が原則とされた。このため、41年に策定した全国鉄道建設計画の「10年間で新線の総延長1000km」という目標は、50年代末になってもわずか280kmの区間でしか達成できていなかった。

一方、道路網の整備も進められた。戦前に3000kmにも満たなかった主要道の総延長は50年代末には1万kmを超えた。36年に策定された「道路建設18年計画」も57年になってほぼ完成を見ることとなり、国内の全ての県や主要拠点が道路で結ばれた。だが、低予算での執行となったことから道路の質は悪く、バンコクから200km圏以遠はほぼ未舗装のままだった。雨季になると通行不能となる路線も少なくなく、輸送コストも高止まりだった。このため、戦後しばらくは鉄道が物流の主役を占めることになった。道路網が脚光を浴びるのは60年代以降の高規格道路の登場まで待たなくてはならなかった。(続く)

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