タイ鉄道新時代へ

【第22回(第2部/第4回)】幻の軍事鉄道「泰緬連接鉄道」

アカデミー賞を受賞した英米合作映画「戦場にかける橋」の舞台として知られるのが、西部カンチャナブリー県クウェー川に架かる「クウェー川鉄橋」。この橋を通る旧「泰緬鉄道」は第2次大戦中に旧日本軍によって建設され、タイからビルマに向けた軍需物資輸送の大動脈となるはずだった。ところが、日本の敗戦により2年も経たないうちに運行停止となり、戦後はタイ・ビルマ間で分割され、その大部分は廃線となってしまった。わずか1年3カ月の工期を実現するために投入されたのは、5万以上とも言われる連合軍捕虜と数万単位の東南アジアの労務者たちだった。コレラの蔓延や重労働によってそのうち数万人が死亡したともされ、いつしか鉄道は「死の鉄道」とも呼ばれるようにもなった。幻の軍事鉄道・泰緬鉄道はどのように計画され建設されたのか。その軌跡を追った。(文と写真・小堀晋一)

バンコクのチャオプラヤー川西岸、タイ国鉄南部本線のトンブリー駅(旧バンコク・ノーイ駅)を出発した列車は、中部ラーチャブリー県にあるノーンプラドック駅を過ぎると右にカーブを描いて山岳地帯に入っていく。ほぼ平行して流れるメークローン川は、やがてカンチャナブリー県で二手に分かれ、一方がクゥエー・ノーイ川となって急峻な地形をうねるようにタイ・ビルマ国境の奥地に水源を求めていく。付近一帯は1000メートルを優に超える山々が立ち並ぶ交通の難所。ここに日本軍は全長415kmに及ぶ鉄道建設を計画したのだった。

1942年5月にビルマ全土を制圧した第15軍(飯田祥二郎司令官)は、防衛のための補給手段としてマラッカ海峡を長駆経由する海上輸送を主体としながらも、陸上補給路の構築を模索していた。時間が経過すれば英本土から潜水艦が到来し、輸送船が標的になるのは明らかだった。当時、日本軍が確保していたタイ-ビルマ間の陸上輸送路は山岳地帯を通る貧弱なわずか一条。輸送能力は日量10~15トンしかなかった。このため急遽、検討がなされたのが、かつて英軍が計画したものの難工事から断念したクウェー・ノーイ川水源近くを通る鉄道ルートだった。

42年6月に告示された大本営による「泰緬連接鉄道建設要綱」では、建設経路を南部本線ノーンプラドック駅からビルマの鉄道駅タンビュザヤ間の約400kmとした。輸送能力は一方向に対して日量3000トン。完工予定を43年末とし、総事業費を700万円と見込んだ。建設には15軍を率いる南方軍の鉄道隊があたった。バンコクに司令部を置き、工期を短くするためタイとビルマの双方から工事を進める体制が採られた。

工事は当初、計画通り進むかに見られた。ところが、ビルマ西方インド国境に近いジャングルでは、ウィンゲート英准将率いる特殊部隊が航空機の補給を受けながら攪乱作戦を展開。その対応に翻弄された日本軍はさらなる兵力の増員と軍需物資の調達の必要に迫られていた。このため、大本営は翌年2月、泰緬鉄道の工期を4カ月繰り上げ、雨季が終わる前の8月末完工とする命令を発し、輸送能力も3分の1の日量1000トンとするよう計画の変更を余儀なくされたのだった。

建設工事に投入されていたのは、日本軍兵士が約1万、連合軍の捕虜が約5.5万、公募により集まったタイ人やミャンマー人などの労務者7万以上の合計10数万人。工事のピッチが引き上げられたこともあって、過酷な重労働に身体を壊す者も現れた。致命傷となったのは例年よりも1カ月以上も早く訪れた雨季の到来だった。これにより、国境近くの街ニーケなどではコレラが集団発生。罹患者は6000人を超え、うち4000人が死亡した。コレラの蔓延は労務者らを恐怖に陥れ、集団で脱走するケースが相次いだ。このため、事態を重く見た大本営は工期を2カ月間延長し、10月末と改めざるを得なかった。

通常であれば5~6年は要する難工事だった。巨大な岩盤を掘削し、川沿いの断崖に桟道橋を造る作業。工作のための重機は乏しく、ハンマーやツルハシが使われたことも少なくなかった。全長120メートルに及ぶクウェー川鉄橋の架設には最も長い5カ月を要した。この間、コレラやマラリアなどの伝染病や常軌を逸した重労働で命を落とした捕虜や労務者らは数万人に達したともされるが、現在に至るまでその正確な数は分かっていない。

それでも工事は43年10月25日に完工を見、泰緬鉄道は完成した。日本からC56型機関車が現地に運ばれ、他の東南アジア諸国からも貨車などが徴用された。ただ、軌道は標準軌より輸送力で劣る1メートル。工事に使用したレールはマレー半島やビルマ国内から転用したものを主にあてがっていた。完成後の輸送にも、補修用の鉄道資材や兵力の搬送に主力を奪われ、肝心の弾薬や糧秣などの軍需物資を運ぶ余力はほとんどなかった。実際に運搬されたのは必要量を遙かに下回る日量50~100トンに過ぎなかった。

一方で、戦局は日増しに厳しさを増していった。44年3月には北東インド・アッサム州の都市インパール攻略を狙ったインパール作戦が開始されたが、わずか4カ月で中止に追い込まれた。タイに通じる街道沿いでは、敗走を続ける日本兵の屍があちらこちらで異臭を放っていた。同年末には泰緬鉄道を狙った英印軍の爆撃も本格化。輸送量はさらに低下していった。そして、45年8月、日本が無条件降伏。これにより、完成から2年と満たない泰緬鉄道もその役割を終えた。敗戦後は英軍によって接収され分割。ビルマ区間についてはビルマに割譲され、敗戦国化を免れたタイは有償で国内区間を引き取った。

戦後、日本の補償などで蘇った泰緬鉄道、現在の南部本線ナムトック支線。トンブリからナムトックまでの約130kmの区間で1日2往復の普通列車の運行が行われている。週末ともなればクウェー川鉄橋周辺は観光地と化し、多くの見学客で賑わう。ただ、残念なことに、軍事上の必要から建設が始まったという背景と多大な犠牲の下に完成したという真実は、時間の流れとともに人々の記憶から静かに消え去ろうとしている。(つづく)

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