タイ鉄道新時代へ

【第1部/第3回】国際鉄道網の整備と立憲革命

第一次世界大戦を「戦勝国」として終えたタイ。ラーマ6世の次なる課題は、英仏列強との「不平等条約」の解消だった。時はヴェルサイユ体制下、戦後国際協調主義の時代。戦禍への不安が遠ざかったことでラーマ6世も交渉を有利に進めるため、列強が求めていた国際鉄道網の整備に応じていく決断をした。これを機にタイの鉄道網は、首都バンコクから近隣諸国に向けて放射状に延伸を繰り返していくことになる。だが、その試みも1929年から始まった世界恐慌、続く立憲革命によって大きく舵取りの変更を余儀なくされる結果となった。(文・小堀晋一)

ラーマ6世の異母弟カムペーンペット親王を総裁としたタイの鉄道事業は、大戦後も鉄道局が掌握を続けた。1910年ころに始まった自動車輸送についても、統括する道路局を鉄道局の傘下に配置し、国内の交通インフラ事業の全てをカムペーンペット総裁の下に置く体制が採られた。

その一方で進められたのが、軌道の共通化だった。ビルマやラオス、カンボジア、ベトナムといった英仏列強の周辺植民地では当時、メートル軌(1000mm)が採用されていた。これに対しタイ国内では、チャオプラヤー川を挟んで東岸では標準軌(1435mm)が、西岸のバンコクノーイ駅を発着駅とする南部本線ではメートル軌が採用されていた。北部、東北部、東部の3本線が発着駅とする東岸の駅は、後に国際ターミナル駅となるフアランポーン。カムペーンペット親王はメートル軌で国内統一することを決め、すでにあった標準軌の路線を約10年間をかけてメートル軌に改修させた。

もう一つ大きな工事となったのが、東岸線と西岸線の相互乗り入れだった。そのためにはチャオプラヤー川を鉄道が渡らなければならない。トンネルなども検討されたが、建設費等の理由から巨大高架橋の建設が決まった。この橋は、完成の2年前に崩御した国王の名を採ってラーマ6世橋と名付けられた。

カムペーンペット親王は限られた財源でも交通インフラの整備が効率良く進むよう、鉄道には幹線網としての役割を、道路についてはそれを補完する支線としての位置づけを鮮明とした。この結果、タイの交通網は、幹線となる鉄道がバンコクから近隣諸国に向かって放射状に伸び、国内の地方の都市と都市については道路が補助的にこれを結ぶ構造が出来上がった。1900年にわずか285kmに過ぎなかったタイの鉄道総延長距離は25年には2500kmを超えるまでに成長した。

 

この時期、鉄道の延伸は国際鉄道網の建設を事実上意味した。英領マレーのペナンやジョホールバル、対岸のシンガポールを結ぶマレー鉄道は大戦期に既に大半の区間で建設が始まっていた。この長距離鉄道網の完成により、タイ中部以北からは豊富なコメが、南部からは錫やゴムが英領マレーの商都ペナンなどの港湾都市に運ばれ、欧州など世界の市場に運ばれていった。南部本線が乗り入れる国際鉄道の開通はタイ国内経済の大きなテコ入れとなった。

だが、南部本線以外の国際鉄道網の整備は、計画こそはされたものの、財源の確保が難しいことや需要の見通しが立たないなどにより進捗にムラが見られ、最終的に全通した路線は一つもなかった。このうち、英領ビルマ(ミャンマー)とを結ぶビルマ線については、タイ南部プラチュアップキーリーカンからビルマに入り、海岸沿いを北上、ダウェーを経てイエーに通じる路線の整備が進められた。後に、旧日本軍が建設することになる泰緬鉄道ルートや北部タークからビルマ・モーラミャインに通じる北方の路線も検討はされたが、山岳地帯の難工事や沿線人口が少ないことなどがネックとなって計画からは次第に外れていった。

タイから仏領ラオスを目指すルートは、東北部コーラートまで開通していた東北部本線の延長で対応した。そもそも同ルートの建設には、仏領ベトナムからラオスを経てタイに至る新たな商業流通網を築きたいとする宗主国フランスの意向が働いていた。当初構想では、ベトナム・フエからラオスに向け山岳地帯に入り、メコン川沿いの都市サワンナケートでタイ側のムクダハーンとを結ぶ計画だった。ところが、これにサイゴンのフランス資本が商流を奪われると反対したことから頓挫。ルートをやや北寄りの都市ナコーンパノムとラオス側ターテークに改め、1930年以降ようやく工事が始まった。

ナコーンパノムはそのまま西進すればタイ東北部の都市コーンケーンに達することができる。一方、ターケークからは東部に山岳越えをすればベトナム中部タンアップに至ることができ、北部ハノイまでもわずかだった。ラオスルートは、バンコクとハノイを結ぶ最短ルートとしても注目を集めた。しかし、タイ東北部からラオス中部にかけては古くからバンコクとの結びつきが深く、流通網を築いたところで新たな独自の経済圏を形成するのは難しいとの見方も根強くあった。こうした時に、建設をストップさせたのが1929年から始まった世界恐慌だった。結果、ラオスに向けた鉄道建設は中止を余儀なくされ、同国内初の本格鉄道の夢も消えてなくなった。今日に至るまでラオスには本格鉄道は存在しない。

一方、仏領カンボジアとを結ぶ国際鉄道の建設は、フランス資本の強い意向もあって計画路線の中では比較的優先的に進められた。タイ側がチャチューンサオまで開業済の東部本線を国境の街アランヤプラテートまで延伸。カンボジア側がバッタンバン、プノンペンを経てベトナム・サイゴンまでの路線を敷設する計画でいた。ところが、大戦後は人手不足と資金不足が顕著となり、さらにはラオスのケースと同様、サイゴンの商人らが国際鉄道の開業によって商流がバンコクに向くと懸念し反対に回ったこともあって、カンボジア領内は自動車輸送で対応することに変更された。東部本線延伸による国際鉄道網構想も、結局のところ土壇場で実現することはなかった。

このように曲がりなりにも進捗を続けていたタイの鉄道建設事業を完全にストップさせたのが、先にも挙げたアメリカ発の世界恐慌だった。コメの輸出が経済の中心を占めていたタイでは影響を直接的に受け、輸出量は3年余りの間に半減。これに伴い鉄道の貨物量・旅客量も激減した。経済活動の停滞は国の財政にも深刻な影響を与えた。当時のタイは国王を頂点とした絶対王政。税収不足は国民生活も苦しめ、不満を増長させた。こうした時に引き起こされたのが1932年の立憲革命だった。

革命によってカムペーンペット親王ら絶対王政を支えた王族は失脚。代わりに誕生したのが海外留学経験のある軍人らで組織した人民党政府だった。新政府は王室政治をことごとく解体、鉄道事業についても見直しを進めた。彼らが問題としたのは、鉄道を基幹とし、道路をその補完と位置付けてきた従来の交通インフラ政策だった。交通手段が鉄道か道路に限られれば、どちらかが損傷した時に代替が効かない。有事の際には致命傷ともなりかねない。軍出身者らで占める新政府はそう考えた。

こうしたことが動機となって策定されたのが1936年の「道路建設18年計画」だった。当時、タイ国内の舗装道路の延長距離は218km余り。ビルマやマレーの1割にも満たなかった。これ以降、タイの交通政策は道路網の整備に重点が置かれ、鉄道は〝冬の時代〟を迎えることになった。(続く)

 

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