タイ鉄道新時代へ
【第1部/第6回】戦禍の傷跡深く
旧日本軍によって完成したタイの国際鉄道網。だが、それは連合国側から見れば、インド北東部インパールを射程とした日本軍の「大東亜縦貫鉄道構想」の一部に過ぎず、開戦後は攻撃の対象となる軍事補給路の一つにほかならなかった。主要な橋梁は連合軍の爆撃によって次々と崩落させられ、鉄路は寸断された。駅舎や鉄道施設も破壊され、修繕も思うように進まなくなった。多数の鉄道技師たちも命を落とした。このようにして迎えた1945年夏の終戦。タイの鉄道は各地で分断され、もはや鉄道網と呼ぶことさえできなくなっていた。連載第6回は、第2次世界大戦で受けたタイの鉄道被害と、泰緬鉄道など戦時下に建設された国際鉄道網のその後についてお伝えする。(文・小堀晋一)
東南アジアにおける旧日本軍の覇権は長くは続かなかった。1943年末には英印連合軍の爆撃機がバンコク上空を飛行するようになり、多数の死傷者を出すとともに繁華街や鉄道施設が焼けた。翌年になると爆撃は頻繁となり、兵士や弾薬、糧秣を戦地に運ぶ鉄道と関連施設がその対象となった。中でも、河川に架かる長大橋梁が狙い撃ちにされた。
44年末には、南部本線と北部、東北部、東部の3本線を結ぶラーマ6世橋が激しく損傷した。この橋はチャオプラヤー川の東西を連結させるだけでなく、ビルマや南部マレーとバンコクを地続きにする軍事上も重要な作戦橋であった。チャオプラヤー左岸マッカサンにあった車両工場に、被災した車両を運び込むための役割も担っていた。タイ政府と日本軍は応急処置を重ねるなどして橋の維持に努めたが、連合軍の爆撃は執拗で、45年始めには完全に使用不能の状態となった。
英印連合軍はこれ以外にも河川に架かる橋梁を狙い続けた。北部本線では、ウッタラディット県ピチャイ郡にあるナーン川(チャオプラヤー川の支流)の鉄道橋が攻撃を受けた。そのすぐ先には、ビルマへの玄関口サワンカロークに通じる分岐駅があった。この結果、バンコクから軍需物資を積んだ軍用列車は北上ができなくなり、チャオプラヤー川の水運とピサヌロークから先は自動車輸送がこれを代替することになった。輸送量は大きく減り、北部本線は北部の一部短区間での折り返し運転を余儀なくされた。
同様にビルマやマレーに向かう南部本線も繰り返し爆撃を受けた。バンコクに近いところでは、西方ナコーンパトム県のターチーン川の橋梁が使用不能に。泰緬鉄道の起点、ラーチャブリー県ノーンムラードゥックの先、メークローン川に架かる鉄道橋も激しい損傷を受けて鉄道車両が通行できなくなった。ビルマとマレー、シンガポールとの直接交通を遮断するのが目的だった。遥か南方、マレー国境に近いスラーターニー県にあるターピー川の橋梁も攻撃を受けた。ターピー川はタイ南部で最長の河川。ナコーンシータマラート山脈の一部カオ・ルワン国立公園を水源に持ち、交通の要衝としても知られていた。マレーからの物資輸送を止める狙いがあったものと見られている。
橋梁に限らず、機関車や貨車も直接の標的とされた。機関車は蒸気とディーゼルが合わせて約200両がタイ国内にあったが(うちディーゼルは1割程度)、そのうち半数が使用不能に。大半は修理さえも難しかった。貨車は約4000両のうち、やはり半数ほどが使用できなくなっていた。
損傷した機関車や貨車を集め、一元的に修理を実施していたのがバンコクのマッカサン工場だったが、工場そのものも爆撃を受けた。それでも夜間を中心に細々と稼働が続けられていたが、戦局がいよいよ苦しくなった45年3月ごろには操業自体が困難となり、事実上の閉鎖に追い込まれた。駅舎、機関区、通信信号設備も被災、破壊されたが、修繕の施しようがなかった。機材、部品、作業員もが慢性的に不足していた。タイの鉄道は日に日に疲弊を続け、やがて終戦を迎えた。
枢軸国側の一員として英米連合国側に宣戦布告したタイだったが、終戦後は国際社会の理解を取り付け、戦争責任の追求を免れることができた。しかし、荒れ果てた国土を戦前のように蘇らせるまでには相当の時間をかけなければならなかった。取り分け、被害の大きかったのが、軍事供用された鉄道網だった。戦争の終わった45年末時点で修繕を終え、稼働していた主な路線は、北部本線がバンコク~ピサヌローク間、東北部本線がバンコク~コーラート間、東部本線がバンコク~アランヤプラテート間に過ぎなかった。しかも毎日運行できたのは戦争被害の少なかった東北部本線だけで、それでもせいぜいが1日1往復にとどまった。他の2路線は、週に2往復が当時の標準的なダイヤだった。南部本線は壊滅的な被害を受け、全線復旧まで多くの時間を要した。
戦争、それによる鉄道網の破壊は、タイの鉄道貨物輸送を停滞、激減させた。開戦直前の41年、180万トンあったそれは終戦時には23万トンにまで減っていた。貨物車両の不足、レールの破壊、そもそも戦争への突入により国際貿易が停止されたことが大きかった。鉄道による貨物輸送量が戦前の水準に戻り、国際交易が活性化するのは50年代に入ってからのことだった。
貨物輸送が停滞する一方で、旅客輸送は戦後間もなくから激増していった。運行する便数そのものはまだまだ少なかったが、いずれの旅客車両も超満員の人々で溢れかえった。その大きな理由の一つに物流の未回復があった。タイの鉄道貨物は壊滅的な被害を受け、回復するまで数年を待たなければならなかった。自動車輸送も同様で、車両や道路の修繕が進んでいなかったことから輸送費は高騰した。このため、タイ政府は旅客運賃を据え置き、鉄道の利用による経済の再興を促した。多くの人々が物資を背に鉄道に乗り込んだ。戦後、日本の各地で満載列車が走った風景が、タイでも同様に見られた。
一方、戦時中に建設されたタイの国際鉄道網も数奇な運命を辿った。このうち、「カンボジア国際鉄道」をめぐっては、仏領カンボジア政府が「タイ仏国境紛争」(連載第3回参照)でタイ領とされた北西部バッタンバン、シェムリアップ両州の再割譲を求める中で、アランヤプラテート~モンコンブリーの区間についても領有を主張。「敗戦国」にあったタイ政府はこれを撥ね付けることができず「返還」に応じざるを得なかった。仏領カンボジアは同区間のレールや資材をプノンペン周辺域の復興に充て、タイ国内鉄道との接続を認めなかった。これにより、タイの東部本線はかつてのように、アランヤプラテートを終着点とする「盲腸線」として戦後を迎えることとなった。
ビルマへの補完輸送路として建設された「クラ地峡鉄道」(チュムポーン~カオファーチー間、連載第5回参照)も同様に消滅した国際鉄道の一つ。もともとクラ地峡鉄道建設には、マレー半島を制圧した日本軍がマレー鉄道のレールの一部を軍事転用させて敷設したという経緯があった。このため、枢軸国側が降伏するとイギリス軍は同様にクラ地峡鉄道のレールを引き剥がし、マレー国内に強制的に移転させてしまった。
現在も一部区間が残るのが、かつての「泰緬鉄道」、現在の南部本線ナムトック支線だ。終戦に伴い連合軍は、タイ国内区間についてはタイ政府に売却し、ビルマ国内区間についてはビルマの資産とすることを決めた。タイ側は国際鉄道としての存続を希望したが、ビルマ政府は国内の復旧が優先するとしてこれを拒否。ビルマ側のレールや資材は他の路線の補修に充てられた。もともと泰緬鉄道建設には、多くのビルマの鉄道資産が使われていた。
タイ側に残った旧泰緬鉄道区間についてタイ政府は当初、廃止も検討する中で最終的に農地の開拓と木材の搬出を目的に整備することを決定した。周囲一帯は密林のジャングルが覆う有数な木材供給地。有益性があると判断された。こうして49年にはノーンプラドゥック~カンチャナブリー間が、58年にはナムトックまでの間がそれぞれ開通した。
戦争により壊滅的な被害を受けたタイの鉄路だが、復興は着実に始まっていた。次回は戦後の輸送力強化と課題について。(続く)