タイ鉄道新時代へ

【第29回(第2部/第11回)】盲腸線(下)カンタン線とキーリーラットニコム線

タイ南部を走る南部本線区間にはマレー鉄道と接続する本線以外に4本の支線がある。このうちハートヤイ(ハジャイ)から分岐し半島の東海岸を通り、マレーシア国境スンガイコーロックを結ぶ区間と、カオチュムトーンから枝分かれしナコンシータマラートに至る区間は1日に5-7往復ものダイヤが組まれており、盲腸線の定義からは離れる。残るトゥンソン分岐とカンタンを結ぶ路線とバーントゥンポー分岐とキーリーラットニコムを結ぶ二つの路線が、1日わずか1往復の運行を細々と続けておりそう呼ぶのにふさわしい。しかも、この2路線、ある共通の目的があって建設がされた。タイの盲腸線シリーズ(下)はカンタン線とキーリーラットニコム線を取り上げる。(文と写真・小堀晋一)

 

 

ラーマ5世の異母弟だったダムロン親王は内務大臣などを務める一方で、そのころ始まった鉄道敷設事業にも深く関与した。親王は国土防衛上の理由や産業促進の目的から、北部と南部の路線建設を急ぐよう提言。鉄道局は「鉄道10カ年建設計画」を作成し、南北路線を中心に向こう10年間で2700kmに及ぶ新線の建設を取りまとめた。このうち北部本線は既に北部ナコーンサワン県のパークナムポーまで到達していたが、南部本線は中部ペチャブリー県までしか工事が進んでおらず、労務者や資材を南部方面に重点投入し建設を急がせた。

ダムロン親王の狙いは、第一に、英資本により出されていたマレー半島縦貫鉄道建設申請の阻止にあった。マレー半島南部を支配下に収める英国が鉄道建設の主導権を握れば、安全保障上の危機につながる。その前にタイ政府が建設する必要があった。また、南北に鉄道が走ればタイの主力輸出産品であるコメの輸送に弾みがつくほか、南部地方で採掘される錫原石の搬送にも役立つと考えられた。

もう一つの大きな理由が、長らくタイ政府の悲願であった半島を東西に結ぶ交通路の確保だった。アンダマン海に面するトランやプーケットといった港町は古くからヨーロッパやインドなどと交易を重ねてきた。一方、タイ湾に臨むバンコクや南部ソンクラーなどの都市は中国との交易で栄えた。だが、半島の存在が東西の海を分断し、タイの地がインド方面と中国とを結ぶ貿易の中継地となることはなかった。半島を横断する鉄道が敷設できれば、この地域における影響力を高めることができる。ダムロン親王はそう考えたのだった。

このため、南部本線の建設はペチャブリー、ソンクラーの南北両端に加えて西海岸トランの計3カ所から進められることになった。このころのトランの県都がカンタンだった。トラン川の河口に位置し、大型船の寄港が可能だった港町。政府はここから建設資材を水揚げする一方で、セメント倉庫なども建設。鉄道車両の組み立て工場も置いた。こうして、まず1913年にカンタン~フワイヨート間が、翌年にはトゥンソン分岐までの全93kmが完成した。東海岸の主要都市ナコンシータマラートやスラーターニーの両駅よりも先に建設が進められた点が実に興味深い。

カンタン支線が東海岸のナコンシータマラートやソンクラーと1組のレールで結ばれたのは、支線の全通から9カ月後のことだった。こうしてマレー半島で初めてとなる東西横断鉄道が開通した。だが、翌年に発生した大洪水をきっかけにトラン県は県都を内陸部のムアントランに移転。また、マレー鉄道への乗り入れが始まりペナン島などの交易力が高まると、次第にカンタンの有益性は低下。東西交易路としての役割を発揮できぬまま鉄道の運行は縮小されていった。

かつてはアユタヤ王朝との交易の中継地として、戦時中には旧日本軍がビルマ方面への軍需物資の輸送に活用したのがカンタンであり、当地を走る同支線だった。その後、この街は特に目立った開発も行われず、豊かな自然が残る観光スポットとして密かに知られるに止まっている。ここを結ぶ鉄道は、今では1日1往復の快速とトランまでの1往復の急行がバンコクとを結ぶだけである。

スラ―ターニー県のバーントゥンポー分岐からプーケット島の対岸ターヌンまで162kmを結ぶ路線として計画されながら、工事が途中で中断したままなのがキーリーラットニコム線。全国の鉄道ファンの間では「タイで最もたどり着きにくい秘境中の秘境」と呼ばれる超ローカル線だ。スラーターニーを午後4時55分に出発した普通列車は、ちょうど1時間後に暫定上の終着駅キーリーラットニコムに到着する。ところが列車は駅で一晩停車。翌朝6時15分に折り返すため旅行者はどこかで宿を取らねばならない。しかし駅周辺は民家や農地しかなく、バスやタクシーなどもない。国道までは10数キロ。国鉄職員でさえも知らない人がいるほどの路線だ。

同路線の建設もアンダマン海に至る輸送路の確保が背景にあった。コメの輸出のほかプーケットにある錫の精錬工場からの需要も見込まれた、このため1938年に鉄道局が建設を提言。40年には測量が完成し、翌年には工事が始まった。戦時中に工事は一時中断されたが、戦後になって「全国鉄道建設計画」が改訂されると最優先区間の一つとして指定され再開。56年にはキーリーラットニコムまでの31kmが暫定開業した。

ところが、開業翌年に国家経済開発委員会(NEDB)が採算性の見通しが立たないとして突如、延伸の中止を提言。当時、タイ全土では高規格道路の建設計画が進められており、モータリゼーションの壁が立ちはだかった。こうして10数km先まで行われていた延伸工事はやむ無く中止に。工事区間は放置されたまま現在に至っている。キーリーラットニコムまでの暫定区間も周辺にゴムの輸送需要があるとして残されたが、それも年々低下。今では沿線に住む住民の交通手段としてのみ存続している。

同支線がカンタン線と異なるのは、今なお延伸計画が生き続けたままという点だ。97年から始まった第8次国家開発計画にはターヌンまでの延伸が盛り込まれている。さらに、2001年には建設予定地に対する土地収用令が発布され、法令上は建設が続行された形となっている。だが、財源措置は何ら講じられないまま収用すら行われない状態が続いている。暫定開業のまま放置された秘境線。いかにもタイらしいエピソードだ。(つづく)

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