タイ鉄道新時代へ

【第23回(第2部/第5回)】激動の歴史の生き証人「アランヤプラテート駅」

タイ東部サケーオ県のアランヤプラテート郡はカンボジアに接する国境の街。かつては内乱による戦禍を免れようと多くのカンボジア難民がここに集まったことがあるほか、最近ではバンコクで発生した連続爆弾事件の犯人が当地の検問所を通過してタイ国内に侵入したことでも知られる。郡内のほぼ中心部に静かにポツリと佇むのは、タイ国鉄東部本線の終着駅アランヤプラテート駅。発着する列車は午前と午後に1本ずつの12往復。バンコクまで254.5kmの区間を8両ほどの短いローカル列車がわずかばかりの乗客を運んでいる。同駅から先、カンボジア国境に向かって今も連結するレールが残るが、国境の手前6.1kmの地点で折り返し運転を行っており、その先を列車が走ることはもうない。今回は、時代に翻弄されながらも歴史を見つめ続けてきた生き証人「アランヤプラテート駅」を取り上げる。(文と写真・小堀晋一)

東部本線は4本あるタイ国鉄基幹路線の中でも総延長が最も短いことで知られる。全長254.5kmは最長を誇る南部本線バンコク~スンガイコーロック間の1142.99kmの5分の1強ほど。運行する列車の本数も極端に少なく、進行速度も遅くて寝台列車はおろか、特急や快速すらも走っていない。まるで廃線直前のローカル線のようだ。だが、その建設への歩みは古く、19世紀末にはすでに始まっていた。

東部本線の建設は、カンボジア領内からタイに向けて鉄道を敷設できないかという構想の中から始まった。1889年、フランスの民間資本が当時のラーマ5世に向けて開発申請をしたのが確認されている最古のものだ。当時の国境地帯、現カンボジア西北部バッタンバン。ここからタイ領チャンタブリー県の港に向けて鉄道を建設するというものだった。すでにベトナムやカンボジア、ラオスといったインドシナ半島の大半はフランスの植民地となり、仏領インドシナ(仏印)と呼ばれていた。鉄道を敷設することで新たな商流を確保するのが狙いだった。

ところが、ラーマ5世は、タイとカンボジアが鉄道で直結されることで敵の侵攻が容易になるとして却下。1892年に同様に申請されたバッタンバン~バンコク間の直通鉄道構想なども、それぞれ安全保障上の見地から不許可とする決定を下した。そのうえで1906年にはタイで初めてとなる「鉄道建設計画」を取りまとめ、以後の新線建設については国土の南北を結ぶ路線を優先とし、仏印領内に通じる東部方面はチャチューンサーオまでとして先送りとされることが確認された。

一方で、仏印政府はタイ領内への侵攻を着々と狙っていた。1893年にはチャオプラヤー川河川港に軍艦を派遣し、領土拡張を要求。メコン川の一部沿岸を割譲させた。1907年には仏シャム条約を締結させ、バッタンバンなどを自陣領に組み込んだ。そのうえで仏印政府は改めて仏印サイゴン(ホーチミン)からプノンペンを経由し、バンコクに至る国際鉄道網の建設を要求したのだった。

状況が変わったのは第一次世界大戦最中の1917年7月、タイが連合国の一員として対独宣戦布告をしてからだった。戦勝国として戦後の国際社会に登場したタイは、英仏列強と締結していた不平等条約の解消を目指すこととした。そのためには新たな国際秩序への参加が欠かせないと判断。従来の方針を転換させ、国際鉄道建設に向けた動きを加速することにした。こうして26年に完成されたのがチャチューンサーオ~アランヤプラテート間194キロだった。翌年にはチャオプラヤー川の鉄道橋ラーマ6世橋も開通、メートル軌への改修・統一も進められ、サイゴンからプノンペン、バンコクを経てマレー鉄道の商都ペナンやシンガポールに至る国際物流構想が大きく進展することとなった。

一方、ミッシングリンクとなっていたカンボジア国内の鉄道建設は仏印の手で行われていたが、財源不足などから遅々と進まず、32年になってようやくプノンペン~モンコンブリー(シソポン近郊)までが開通するといった有り様だった。そこから先アランヤプラテートと国境で向き合うポイペトまでの約60キロの区間は着工すらされていなかった。

再び状況が大きく動いたのは、30年代末になってからのことだった。欧州ではナチス・ドイツが台頭、緊張が高まっていた。兵力を本土防衛に充てたいフランスは、タイに仏タイ相互不可侵条約の締結を打診。40年6月、調印がされた。ところが批准を前にパリが陥落。当時のピブーンソンクラーム首相は条約の破棄を通告。仏印に侵攻し、1907年に割譲したバッタンバン州とシェムリアップ州の回復を要求したのだった。この時、前線まで兵士や軍需物資の輸送を担ったのが東部本線だった。終着駅アランヤプラテートは、奇しくも戦時下の軍事拠点として終戦まで機能し続けた。

プノンペンからバンコクまでの未開通区間を完成させたのが、この時期、インドシナ半島に侵攻していた日本軍だった。41年12月にタイ政府との間で日泰攻守同盟条約が締結されると、わずか2週間余りのうちにミッシングリンクは建設を終え、国際鉄道が運行を開始した。カンボジアからは兵士や物資などがタイ、さらにビルマに向けて搬送された。

第2次世界大戦で対英米宣戦布告をしたタイだったが、その無効宣言が認められ、戦後は敗戦国として処遇されることはなかった。それでもフランスだけは、大戦直前に奪われたバッタンバン州とシェムリアップ州の返還を要求。最終的にタイ政府も応じざるをえなかった。この時、国際鉄道はアランヤプラテートで分断され、その復活はカンボジアの完全独立まで待たねばならなかった。

その後もアランヤプラテート・ポイペト間は、断交や国交樹立など両国間で繰り返される外交交渉の狭間で翻弄され、復活と休止を繰り返していった。75年に発足したポル・ポト政権は、シソポンから先のレールを取り外し、極端な原始共産主義社会を建設。以後、今日に至るまでレールの復興はなされていない。ポイペトには90年代末以降、多くのカジノが進出、街並みはすっかり変貌を遂げてしまった。こうした激動の時代の中で、アランヤプラテート駅は静かに時を刻み続けている。(つづく)

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