タイ鉄道新時代へ

【第27回(第2部/第9回)】東部本線サッタヒープ支線

タイ屈指のリゾート地「パタヤ」。バンコクからこの地を目指そうとする時、ほとんどの人はマイカーを利用するか、運行本数の多いバス(含ミニバス)に乗車する。タイ国鉄東部本線に「パタヤ」という駅は存在するものの、市街地からは離れているうえに11往復と使い勝手が悪く、よほどの鉄道マニアでもなければ利用を思いつくこともない。ところが、そんなローカル線に平行して「新幹線」を引こうという試みが進められている。採算の見込みなどはあるのか。この地域の歴史を紐解いてみた。(文と写真・小堀晋一)

ディーゼル機関車を先頭車両とした283番のローカル列車は、毎週平日の午前6時55分、バンコク(フアランポーン)駅を発車する。途中、東部本線のチャチューンサオ駅で南に分岐しパタヤ方面を目指すが、スクンビット通り(国道3号線)よりも内陸側を走行するため車窓から海が見えるようなことはない。沿線には雑木林や果樹園がどこまでも広がる長閑な田舎の鉄道だ。

パタヤ方面サッタヒープ支線はチョンブリ県南端にあるサッタヒープ港を終着駅とするが、旅客車両がここを訪れたことはない。列車はその2つ手前バーンプルータールアン駅で運行を終え、約2時間15分停車した後にここから再びバンコクに向けて走り出す。到着は夜7時40分、1日の運行はこれで終了だ。

同県サッタヒープ郡にある終着旅客駅バーンプルータールアンは1面1線の三等駅。バンコクからは184.03kmの距離にあり、片道一人37バーツ(約120円、取材当時)と運賃が格安なため利用の頻度は一見して高そうに思われる。だが、駅そのものが市街地から10キロ以上離れているうえに全線で4時間半近くを要するため、利用客は極端に少ない。採算割れは誰の目にも明らかだ。

東部臨海地域沿いに鉄道を敷設しようという構想は第2次大戦以前からあった。1941年に策定された政府の全国鉄道建設計画にはチャチューンサオから分岐し東部チャンタブリー県に向けた新線の建設計画が含まれており、サッタヒープ支線の原型と見ることができる。50年代後半のサリット政権時代にはチョンブリ県シーラチャーに新たな深海港を建設する計画が持ち上がり、その貨物需要が鉄道構想を後押しした。

具体化したのは60年代後半から70年代にかけてのことだった。このころ、インドシナ半島ではベトナム戦争の影響が深刻化。サッタヒープ港は軍港として利用価値が高まり、ここで揚陸された軍需物資はトラックに積み替えられ赤化が著しいラオス国境などに運ばれて行った。より大量の物資や兵士を国境沿いに送る必要に迫られていた。

政府は駐留米軍に対し新線建設への協力を要請。米側もレール資材の提供を申し出るなどしたが、建設費の協力までは困難とした。一方、タイ側も道路建設を優先する必要があり、財源の確保ができないでいた。結局、着工がされたのは81年になってから。戦争は終わっていたが、新港完成までの代替としてサッタヒープ港を鉄道で結ぶ必要が生じていた。開通したのは89年のことだ。

この間、政府は第6次5カ年計画(1987~91年)を策定。この中で東部臨海工業地帯の開発を促進するとした。91年には新たな深海港レムチャバン港が完成。95年にはラヨーン県マープタープットを結ぶ支線と、サラブリー県ケンコーイとレムチャバン港とを直接結ぶ貨物バイパス線も開業することとなった。

サッタヒープ支線の最大の特徴は、そのほとんどが貨物需要を見越して建設されたということだ。このため、開業直後でも旅客運行はバンコク~バーンプルータールアン間の1日2往復しかなかった。レムチャバン港などを結ぶ支線各線とケンコーイ・バイパス線は貨物運行しか想定されず、同バイパス線は全長が80キロ以上もありながら貨物駅が3駅しかない。

一方で、国鉄は95年、ダイヤ改正を実施。低調続く旅客支線の見直しに着手した。1日2往復あったバンコク始発の1本についてチャチューンサオ始発に。それまで2編成によって運行されていた同支線は1編成となり、バンコク発後にバーンプルータールアンで折り返しチャチューンサオ行きとなり、再び終着駅まで走行した後にバンコク行きとなる運行に切り替えられた。2003年には完全な1日1往復へと削減された。

ラヨーン県マープタープットには石油化学コンビナートが立ち並ぶ。サッタヒープ支線の分岐支線が延びており、海上コンテナ貨物駅として稼働を続けている。そこから東に15キロほど進めば県庁所在地ムアンラヨーン郡がある。97年から始まった政府の第8次5カ年計画には、ついにこの地に旅客鉄道を建設する計画が盛り込まれ、人口10数万の街は沸いた。

製造業や石化事業など産業の集積が進むタイ東部では、バンコクとラヨーンを結ぶ高速鉄道計画が何度も浮上しては検討の対象とされてきた。だが、96年に持ち上がったそれは翌年の通貨危機で頓挫。2013年にインラック前政権が打ち上げた新線計画も翌年のクーデターで白紙撤回されるなど、そのたびに立ち消えとなってきた。

バンコク一極集中のタイで、日本の新幹線などを想定した高速鉄道を建設したとしても採算面の見込が立つとは必ずしも限らない。とりあえず建設してはみたものの低利用であえぐ現サッタヒープ支線の状況を鑑みれば一目瞭然とも思える。だが、中国との接近を続ける暫定軍事政権は北部ノーンカーイとラヨーンとを結ぶ新たな高速鉄道建設計画を進め、パートナーに中国企業を選んだ。行きつく先はラオスを経由した中国本土との接続。まだまだ慎重に見極める必要はある。(つづく)

 

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