タイ鉄道新時代へ

【第31回(第2部/第13回)】廃止線(下)ソンクラー支線とクラ地峡鉄道

バンコクと地方をつなぐタイの鉄道建設は、異民族の侵入や周辺国を植民地支配する英仏列強への警戒などもっぱら安全保障上の脅威がきっかけとなって19世紀末から国策として始まった。一方で、マレー半島を南下する南部本線においては、コメや資源などの輸送路確保という産業政策上の側面も合わせながら進められ、他路線より比較的早い時期に着手や検討が進められている。その一つに、ハートヤイ(ハジャイ)から分離するソンクラー支線(26.68km)とクラ地峡を横断するクラ地峡鉄道(91km)があった。だが、後者は戦争により、前者も利用客の激減によって歴史的な使命を終え、ともに廃線となって今では痕跡を探すことさえ難しい。廃止されたタイの鉄道(下)は、南部本線から枝分かれしたこの2線を紹介する。(文と写真・小堀晋一)

マラッカ海峡航路の中継地シンガポールとマレー半島西岸の貿易港ペナンをともに支配していたイギリスでは19世紀半ば以降、次なる照準をコメや天然ゴム、錫などの一大産地タイに置き、進出の機会を伺っていた。タイでは貿易の拡大を目指すラーマ4世が中央の平原部に多くの運河を建設、コメの増産を進めていた。こうした折り、イギリス資本が「サイアム鉄道」という名の会社を設立。1859年、チュムポーン県からラノーン県にかけてのクラ地峡での鉄道建設をタイ政府に申請したことから、この地方の開発は始まった。

資金難などから当該計画は間もなく幻となったが、その30年後。今度は南部の商業都市ソンクラーから南西にマレーシア国境を超え、ペナン島対岸の内陸の街ケダ州クリムに至るルートに鉄道を建設したいとの提案がシンガポール在住の英資本から寄せられた。現在の南部本線マレー西岸線とほぼ重なるルート。この時、ラーマ5世はコメの貿易拡大につながると判断。タイ側が主導して建設することを条件にこれを認可した。だが、この計画も配当に対する政府保障をめぐって実現することはなかった。

南部地方での本格的な鉄道建設は1906年の「全国鉄道計画」策定を機に始まった。この中で、ペチャブリーまで開業済みの路線を南へ延伸させ、ソンクラーを経由し、マレー半島東岸を南下する計画案が盛り込まれた。すでに南部地方の商都として成長していたソンクラーを南部本線の事実上のターミナル駅とし、貿易の貴重な中継地点としたいとの思惑があった。アンダマン海に面するトラン県カンタンまでの路線も同時に計画されており、ソンクラーとカンタンを結ぶ半島横断鉄道の目論見もあった。

ソンクラーの歴史は古い。マレー半島から大スンダ列島を支配下に置いた海洋交易国家シュリービジャヤの全盛期7世紀ころには貿易港として存在していたと考えられている。ソンクラー県の西側、アンダマン海に面するトラン県やサトゥーン県、さらにはマレーシア・ケダ州にかけては脊梁となる山脈が比較的平穏で、ソンクラーから半島を牛車などで横断してインド洋に至る交易ルートがあったとみられている。ラーマ5世がカンタンに至るルートの建設を急がせたのも、自然の流れと言えた。

南部本線の建設(延伸)には、タイが不平等条約解消のためにイギリスにマレー4州を割譲、その代償として得た400万ポンドの借款が充てられた。こうして1909年に本格着工した同線は、ペチャブリー、ソンクラー、そして西岸のカンタンの3カ所から同時に建設が進められ、1914年10月には早くもソンクラーとカンタン間の288.4kmの半島横断鉄道が開業。バンコクや各地から船で集められたコメやブタ、錫や天然ゴムなどの物資がソンクラーで貨車に移し替えられ、鉄路をカンタンまで経由、ビルマやインド方面に向けて搬送されていった。

一方で、先行開業したこの区間がバンコク発着の南部本線の基幹線と同じレールで接続されるには、もう2年ほど待たねばならなかった。当時の政府が、いかに半島横断ルートの建設を重視していたかがよく分かる。加えて1918年には、ハートヤイから分岐してマレーシア国境のパダン・ブサールとを結ぶ鉄道網(半島西岸線)も新規整備され、これでこの地方の国際交易ルートとしての体制がほぼ整うこととなった。

クラ地峡鉄道(チュムポーン~カオファーチー)は何度も建設計画が持ち上がっては、資金面で立ち消えとなる状態が続いていた。ルートは半島で最も狭い約44kmとされたが、ビルマとの国境沿いから続く峻険な山々が大きく立ちはだかっていた。結局、実際に建設が始まったのは太平洋戦争の真っ直中。その担い手はもっぱら仏印から上陸した日本軍の将兵たちだった。建設には、日本軍に投降した捕虜や現地の労働者が徴用された。

1941年12月8日、ハワイ真珠湾を攻撃した日本軍は、イギリスの支配地シンガポールを攻略するためマレー半島にも上陸した。将兵を乗せた20隻の輸送船のうち実に11隻がソンクラー港に接岸、翌日から半島の南端を目指した。同時に検討されたのが、半島を横断してビルマに兵士や軍需物資を送る届ける新たな鉄道建設の計画だった。

地峡鉄道は、南部本線ノーンプラドゥックから分岐してビルマ・タンビュザヤまでを結んだ泰緬鉄道(約415km)のバイパス路線として建設が進められた。戦況悪化で工事を急いだことから泰緬鉄道の日量輸送能力は当初計画を大きく下回る1000トンしかなかった。これを補うのが役割だった。だが、短期間での工事を余儀なくされたため、クラ地峡鉄道の輸送能力も日量わずか300トンしかなかった。しかも、間もなくして英印軍の空爆により線路などの施設が激しく損傷。1944年半ばには満足な運行ができない状況となっていた。

日本の敗戦を受け、クラ地峡鉄道はその歴史的運命を終えた。廃線となった路線のレールは悉く引き剥がされ、戦後マレーシアの鉄道資材に転用された。駅舎や信号施設も破壊され、今ではどこに存在したのか、その正確な所在地さえも分からなくなっている。

一方、ソンクラー支線もその後のモータリゼーションの到来によって利用者が激減。分岐駅に過ぎなかったハートヤイの開発が戦後大きく進んだことから、経済的な地位も奪われ、鉄道営業も1978年に終えている。(つづく)

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