タイ鉄道新時代へ

【第42回(第3部第2回)】インドシナ縦貫鉄道構想その2

カウントダウンが始まったタイからカンボジア、さらにはベトナムへと結ぶインドシナ縦貫鉄道構想。タイ国境のカンボジア側の街ポイペトでは、タイ側の現終着駅アランヤプラテートから伸びたレールが国内に延伸し、ピッチを上げて連結工事が進められている。一部区間で立ち退きを求められた住民との間で補償協議が継続されているものの、カンボジア運輸省は年内開通の方針は変えないとしている。建設区間の周辺では新たな商業施設や居住施設を整備しようとする動きも始まっており、長らく国境の片田舎として開発の外に置かれた街は変貌を遂げつつもある。縦貫鉄道構想の2回目はポイペトの街を中心に取り上げる。(文と写真・小堀晋一)

 

首都プノンペンからの寝台バスは定刻より30分も早い午前6時前にポイペトの街に到着した。空が明るさを増し、ほのかな朝の気配は感じるものの、時折吹く風に赤い土煙が舞う様子はさながらテレビの西部劇で見た片田舎の街そっくりだった。ここは国境というよりはどこか最果ての地、そんな印象を抱いた。そろそろポイペトからタイに向かう出稼ぎの通勤ラッシュが始まるころであり、8時も過ぎればタイ側の出入国管理局(イミグレーション)には長蛇の列が出来るのが日課となっていた。その傍らでは、タイから伸びたインドシナ縦貫鉄道のレールの延伸作業が進められていた。

ポイペトで早朝の様子を取材するためには、バンコクから向かったのではイミグレの開業時間に合わない。カンボジア側に宿を取る方法もあるが、数軒立ち並ぶ場違いなカジノには関心がなかった。そこで考えたのが、プノンペンに空路先回りし寝台バスで早朝のポイペトまで戻るという方法だった。前夜午後9時にプノンペンのバスターミルを出発するバスを選んだ。

バスは全席ベッドタイプの定員40人。高さの低い中央通路の両側に上下2段のベッドが直列に5つ並んでいた。つまり、一つのベッドの定員は2人。日本では信じられないダブルベッドの寝台バスだった。ベッドの幅はホテルのシングルベッドよりも狭い、せいぜい80センチもあればよかった。ここで見ず知らずのカンボジア人男性と肩を触れ合いながら、7時間も添い寝をして現地に到着した。

赤土がむき出しのメーン通りがどこまでも続いていたが、人々は早朝からよく動き働いていた。道端の食堂で朝食を取ったが、ご飯におかずが2品添えで鶏肉とゴーヤのスープ付き。値段も味もタイの屋台料理と変わりはなかった。タイ語もごく普通に通じた。異民族が混じり合う国境さながらの活気を感じた。

食堂から徒歩で3分もかからないところに、タイへ向かうかつての起点駅、旧ポイペト駅跡地があることは下調べで分かっていた。腹ごしらえを済ませた後は旧跡地に直行。「このあたりかな」と思った先に建っていたのは、爆撃でも受けたのか半ば朽ちかけた2階建ての旧駅舎だった。

建物の内部に立ち入ってみた。大きく焼け焦げた跡が随所に見える。窓枠だけがすっぽりと空を映し出し、光が差し込んでいた。1975年からのポルポト政権下で破壊された一つに鉄道があった。駅舎には火が放たれ、レールは剥がされた。その廃屋に現在住んでいるのは、小さな男の子を家族に持つホームレスだった。

ポイペトと西北部バンテアイ・ミエンチェイ州の州都シソポンとを結ぶ新線の建設は、この旧駅舎の裏側で進んでいた。軌道予定地内は綺麗に掘削・整地がなされ、砂利が挽かれた直線区間にレールが敷かれるのを待っていた。新たな国境の新生ポイペト駅もこの辺りに建設がされるであろうことが看板や現地の様子から分かった。

旧日本軍が建設したタイ・カンボジア間の国際鉄道は、日本の敗戦によって旧宗主国のフランスが一式を接収したものの、マレー半島東岸線とは異なって破壊や撤去などはされずしばらく放置状態が続いた。復旧工事が進み運行が再開されたのは、フランスの手を離れカンボジア王国として完全独立を果たした後の55年のこと。全権を握っていたのは独立運動を導いたノロドム・シハヌーク国王で、間もなく王位を実父に譲ると首相に就任。後に国家元首にも就いて精力的に国際政治を渡り歩いていった。

運行再開とはなったものの、その後の国際鉄道はカンボジアで繰り返される国際紛争に翻弄されることになる。国境紛争で揺れるタイとは61年に断交、すると鉄道も運行休止を余儀なくされた。シアヌーク国家元首がフランスを訪問中だった70年にはロン・ノル将軍がクーデターに及び、カンボジア王国はあえなく崩壊した。クメール共和国は一転して国際鉄道を復活させた。

だが、それも長くは続かなかった。国土は間もなく内戦状態に陥り、ロン・ノル派にシアヌーク派、共産勢力などが対峙し合う緊張関係が続く事態に。こうした中で首都プノンペンを占領し、支配を確立したのがポル・ポト率いるクメール・ルージュ(後のカンボジア共産党)だった。ポル・ポト政権の民主カンプチア政府は極端な原始共産主義体制を採り、資本主義と見做すものを次々と破壊していった。鉄道もその対象だった。

こうしてノン・ノル時代に再々運行された国際鉄道は75年を境に再び打ち切りとなり、駅舎や信号施設などは軒並み破壊され、撤去が進んだ。軌道も国境のポイペトからシソポンまでの区間でレールごと剥がされ、その跡地には地雷が敷設された。カンボジアの和平を占うパリ協定が締結された91年以降しばらく経っても、鉄道復興や開発が進まない原因の一つに地雷の問題があった。

ポイペトのうち、タイとカンボジアの入国審査場の狭いエリアでは、その後、タイの富裕層を狙ったカジノホテルがいくつも建てられ、かつての上海や天津のような租界に似た賑わいを見せている。今回の国際鉄道復活に際しホテルの幾つかは改修や移転に応じ、その工事もほぼ終えている。ポイペトは、40数年ぶりの運行再開を今か今かと待ち焦がれている。(つづく)

 

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