タイ鉄道新時代へ
【第67回(第3部27回)】タイからビルマへ。鉄道等輸送をめぐる旅その9
旧日本軍が泰緬(タイ・ビルマ)両国にある鉄道との連結を目指し建設を進めた3つの自動車道の一つ「ターク~ミヤワディ・ルート」は、開戦直後こそ多くの日本兵や軍需物資がタイからビルマに向けて送り届けられたものの、1943年10月の泰緬鉄道の開通以後は必要性が低下し使用頻度も少なくなっていた。代わって浮上したのが、チェンマイからメーホンソン県クンユアムを経由し、ビルマ・タウングーに至るルートと、ラムパーンから最北部チェンライ県メーサーイを経由し、ビルマ・チェントン、さらにはタカウに至る2つの新たな自動車道だった。ビルマでの戦闘はもっぱら北部地域で展開されており、拠点となるマンダレーへのアクセスが優先されたのだった。今回は「チェンマイ~タウングー・ルート」を取り上げる。(文と写真・小堀晋一)
ターク~ミヤワディ・ルートが比較的早期に建設が進められ、今日のタイとミャンマーを結ぶ東西経済回廊の礎となったのに対し、チェンマイ~タウングー・ルートの建設は道なき道の未開地を切り拓く前代未聞の難工事が予想された。このため、建設に先立つ構想そのものも43年になってようやく具体化するに至った。
同年1月に新設された泰国駐屯軍(後の第18方面軍)の中村明人司令官は、着任後直ちにこれら2つの自動車道の調査を指示。間もなくして、チェンマイ~タウングー・ルートの建設が正式に決まった。開戦直後の日泰共同作戦要綱により資材や労務者らの調達はタイ側が行い、日本側は仏印にあった第21師団の工兵隊を派遣。建設指導に当たらせることも合わせて確認された。
工事は6月に始まった。ところが、労務者の確保は予想以上に進まず、タイ側のサボタージュも重なったことから工事は冒頭から大きく遅延。9月になってもわずか1000人程度の労務者しか確保できない有様だった。クンユアムに至る山岳地帯の難工事がこれに拍車をかけた。
このため、日本側は後の「インパール作戦」に従事するためビルマに向けて進軍中だった第15師団を足止めさせ、工兵連隊と歩兵第1大隊をメーホンソン県の建設現場に投入、工事を急がせる挙に出た。だが、それによっても遅れは改善せず、時間ばかりが浪費する事態に変わりはなかった。結果、ビルマ作戦を担当する第15軍(牟田口廉也司令官)の度重なる進軍要請を受けた第15師団の山内正文師団長がビルマ進軍を改めて意見具申。南方軍もこれ以上の遅れが作戦全般に及ぼす影響を考え、転進を許可することとなった。
これにより、チェンマイ~タウングー・ルートの建設は、現場に残された第21師団工兵隊を指揮部隊に、千人単位規模のわずかのタイ人労務者らによって細々と続けられることになった。この間、ビルマ北西部では計9万人以上が投入され、このうち3分の2以上が戦病死する史上最大の無謀な作戦と後に呼ばれるインパール作戦が始まっていた。
少ない人員に加え、重機も資材も乏しい劣悪な環境の中で、チェンマイ~タウングー・ルートの建設は細々と続けられた。そして、とうとうインパール作戦最中の44年5月、着工から約1年を要して両国の主要鉄道駅を結ぶ全長400キロ(タイ側、ビルマ側各々約200キロ)に及ぶ軍事輸送路が「完成」したのだった。
だが、完成とは名ばかりで、自動車が満足に走行できるのはチェンマイからメーホンソン県パーイまでの約120キロ余り。それも車で10時間という道のりだった。その先、クンユアムから国境を超えビルマ・タウングーに至る200キロにも連なる山岳地帯は、徒歩か駄馬による通行しかできなかった。この区間の通行には1週間前後をも要した。
よって完成となった後も、当該輸送路を使った兵士や軍需物資の輸送はほとんど行われることがなかった。道路の改修も進まず、道は荒廃を続けた。チェンマイに置かれた建設司令部も45年3月にはラムパーンへと移設がされ、ラムパーン~タカウ・ルートが北部進軍の中心と位置付けられた。チェンマイ~タウングー・ルートは、機能上も戦術的にも無用の存在と化した。
同ルートが再び注目を集めるのは、連合国がポツダム宣言を発した太平洋戦争終盤になってからだった。この時、インパール作戦などで敗れた旧日本軍の敗残兵は、命からがら同盟国のタイを目指していた。泰緬鉄道もその役を担ったが、乗り切れない数万の人々がかつての軍需輸送路だったチェンマイ~タウングー・ルートに殺到した。「白骨街道」の出現だった。(つづく)