スー・チー政権続くミャンマー<後編>

1985年の「プラザ合意」で円高が急速に進み、日本の製造業が生産コスト低減を求めてタイに集中豪雨的とも表現される勢いでの投資を始めた。当時のミャンマーは、軍政下でまるで鎖国している眠れる国だった。日本企業だけでも年に数百件ペースでタイ投資を始めたタイでは、深海港や道路や工業団地などのインフラ整備を急速に進め始めた。1987年にはタイ初の深海港レムチャバン国際港の建設を開始、数年後の1991年に開港させた。ミャンマーのインフラ整備の遅れはタイと比較することさえできない。  ミャンマーでも初の深海港を含む開発計画はある。テイン・セイン政権時代に決まったダウェイ経済特区(SEZ)開発とチャオピューSEZ開発だ。ダウェイ開発が始まった当初、タイ最大手の建設会社(ITD)社長に筆者がインタビューした記事では、「2020年に1期計画が完成する」と答えているが、ダウェイの海岸線は今も静かなビーチのまま。中国が進めるミャンマー西部のチャウピューでも深海港などの工事が開始されずに中国側も苛立っている。  ミャンマーでは2011年3月30日、テイン・セイン大統領が率いる政権の発足で民政移管が実現した。軍人出身のテイン・セイン氏だが、すべての政治犯の釈放、報道の自由化、為替制度の改革、自動車規制の緩和や格安携帯電話システムでは外資にも解禁したなど、民主化と経済の自由化を大胆に進めた。2012年1月12日には最大の武装勢力だったカレン民族同盟(KNU)と停戦合意にもこぎつけた。しかしNLD政権が2015年にスタートして以来、テイン・セイン政権が進めた改革の勢いのほとんどを止めてしまった。新国際空港をヤンゴンから北東へ約70キロのハンタワディに開発する最初の事業権入札は2012年に行われているが、この工事もまだ調査段階だ。

中国を最大の友好国に

2016年に国家顧問兼外相という国家元首並のポストを得たスー・チー氏はASEAN以外の国としては中国を最初の訪問国として選び、その後も頻繁に中国に通っている。17年5月に北京で開かれた「一帯一路」国際会議に出席したスー・チー氏は習近平国家主席と会談してミャンマーのインフラ整備と貿易拡大に向けた協力の強化を決めた。スー・チー氏は2018年にミャンマー政府の「一帯一路実現委員会」の議長に自ら就任している。  ミャンマー最大都市のヤンゴンではあちこちの高級住宅団地などに中国人が多く住む地域が増えている。ヤンゴンに次ぐミャンマー第2の都市マンダレーは「中国の植民地」とミャンマー人が自嘲するほど中国の存在が拡大している。古くから巨大な中国向けの翡翠市場がマンダレーにある。2015年には巨大なショッピングセンターや高級アパートが林立するニュータウン「ミンガラーマンダレー」がオープン、かつての野原がマンダレーの中国人を中心とする新都市に変貌した。  習近平国家主席は2020年1月17日から翌日にかけてミャンマーを公式訪問した。武漢で発生していた新型コロナウイルス問題発生の報告を受けていたにも関わらずミャンマーに向かったのはミャンマーとの国交樹立70周年式典に出席するためだった。  軍政時代に中国が巨大ダムの建設を始めたミャンマー北部カチン州でのミッソンダム建設は、テイン・セイン政権時代に大統領自らが地元住民の意向を組み入れて凍結を決めた。スー・チー氏と国民民主連盟(NLD)もこのミッソンダム建設に対して2015年の総選挙までは反対していた。だが、総選挙に当選して以来、NLDからダム反対の態度が消え、スー・チー氏もノーコメントを続けた。そこで「ミッソンダム建設賛成に寝返った」と感じた地元カチン州では建設反対のデモも発生している。  ミッソンダムが完成すればその電力のほとんどが中国に輸出されること、ミャンマーを代表する神聖なエーヤワディ河(イラワジ河)の汚染などが地元の反対理由。2019年にはミッソンダムがあるカチン州で少数民族系3党の合体による新党「カチン州人民党」が結成されミッソンダム建設の全面廃止を主な活動目標にしている。  中国はスー・チー国家顧問が率先して「一帯一路実現委員会」議長に就任したことを高く評価している。2011年9月に工事を凍結させてから久しいミッソンダム建設を中国が諦めないのは、スー・チー氏がいつかダムの建設再開にGOサインを出すと期待しているからだ。数年前に筆者はミッソンダムの建設現場に行ってみたが、工事がいつでも再開できるように関連施設は警備員が守り、中国人労働者が住んでいたアパートには誰も住んでいなかったが、いつでも再使用できそうな状態だった。

進展しないロヒンギャ問題

2017年8月末からの数か月間だけでラカイン州(旧アラカン)に住むイスラム教徒の少数派である「ロヒンギャ族」70万人以上を銃で脅しながらバングラデシュに追い出したのは「民族浄化」だとして国連を始め世界中からのミャンマー政府へ抗議が続いている。しかしNLD政権ではまったく解決する意思がなさそうであり、今回の総選挙では論点にさえならなかった。  政府は「ロヒンギャ族」のラカイン帰国をしぶしぶ約束したものの、これまでにラカイン州に戻った「ロヒンギャ族」はごく少数だけ。大学教師も含む筆者のミャンマー人の知人の全員が日ごろは温和な人たちだが、会話がこと「ロヒンギャ」に及んだとたんに「追い出して当然」「虐殺やむなし」など、国軍を支持する言葉を平然と口にする。ロヒンギャを嫌う理由について聞いてみても、「彼らは不法移民」「彼らの子沢山(こだくさん)を許せばいつかミャンマーはイスラムの国になってしまう」という恐怖を語るだけ。存在すら認めたくないので「ロヒンギャ」という言葉は一切使わず、「ラカインのイスラム教徒」などと表現するのはスー・チー氏も同じ。2020年の8月頃からラカイン州でコロナ感染者が急増したのは、「コロナに罹っているロヒンギャ族がワイロを払ってミャンマーに入国する際に持ち込んだ」と仏教徒たちが噂している。  西アフリカのガンビアが、ラカイン州からのバングラデシュへのロヒンギャ属の追い出しはジェノサイド(民族大虐殺)条約違反だとしてイスラム協力機構(OIC)を代表してオランダのハーグに本部を置く国際司法裁判所(ICJ)に2019年11月に提訴した。翌12月にはスー・チー氏がICJでの審議に出廷しガンビアの主張を否定、ミャンマー国軍を公然と擁護した。国軍を始めロヒンギャ族以外のミャンマーのイスラム教徒団体、反政府武装勢力のワ州連合軍(UWSA)もスー・チー氏のICJ出廷を歓迎した。スー・チー氏がハーグに向かう直前にはヤンゴンで、同氏を支援する数千人の集会も開催されヤンゴン管区首相も出席した。ICJでスー・チー氏が行った国軍弁護発言に欧米が猛反発、欧米マスコミは民主化リーダーが地に落ちたと書いた。だがオランダのICJから首都ネーピードーの空港に戻ったスー・チー氏を支持者の大歓迎が待ち構えていた。当時、下がり気味だったスー・チー氏は人気挽回で大成功した。しかし世界的には1991年の同氏が得たノーベル平和賞受賞の栄誉は色あせた。

激化する民族紛争

NLD政権の公約の民族融和や停戦合意が進まないとの海外からの指摘に対してスー・チー氏は、「ミャンマーはきわめて複雑な国だから変革には長い時間がかかる」などと公言してきたが、武装少数民族と国軍との戦闘は激化傾向にあり、いくつかの少数民族が連帯して国軍と戦うようになった。  マンダレーに近い避暑地であるピンウーリンではミャンマー国軍の発表で2019年8月15日の早朝、国軍の技術大学や施設をタアン民族解放軍(TNLA)、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA)アラカン軍(AA)の連合軍が攻撃し国軍兵士など15人が殺害された。MNDAAはかつて中国から移住した漢民族である果敢(こうかん)族の反政府軍でTNLAは少数民族パラウン族の反政府軍。カチン独立軍(KIA)と組むこともある。  ロヒンギャ問題で揺れるミャンマー西部のラカイン州ではアラカン軍(AA)が「アラカン」の独立を目指して勢力拡大を続けている。AAがアラカンからは地理的に反対側にあたるミャンマー北部でも戦い始めたのは北部のカチン州ライザにAAの基地があるから。北部で訓練を受けたAA軍人がラカイン州に戻って国軍との戦闘活動を増やした。かつて100人程度だったAA軍は万近くに増えているとされる。ラカイン州はかつてアラカン王国でビルマ族に滅ぼされた歴史がある。数年前にアラカンのあちこちを旅したが、通訳をお願いしたアラカン人も熱心なAA支持者で「いつかアラカンは独立したい」と熱っぽく語った。  ミャンマー人の多くは「スー・チー氏とNLDしか国軍と戦えない」と考え、新たなミニ政党ができるよりNLDの強大化を願っているようだ。一方で権益を一切手放したくない国軍は、隙あれば権力をより高めたいと考えている。だからクーデターが起きることを心配するミャンマー人が増えているようだが、元国軍幹部が許さないはずだ。しかし2020年11月の総選挙結果に対し最大野党の軍系USDPは、「今回の選挙は不正があり結果を認めない」と記者会見し苛立っている。  USDPは国軍とともにNLD潰しに活動を強めそうだ。だから、ミャンマーは総選挙でのNLDの圧倒的勝利で安定した、などと安心してられないだろう。今後もミャンマー情勢に注意していきたい。

2021年2月1日掲載

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