ミャンマーの謎めいたインド国境地帯(下)   印中が交差するザガイン管区

ミャンマーと国境を接するインドのモレからインパールまで110キロ。ヤンゴンに次ぐミャンマー第2の都市マンダレーからインドとの国境タムまでは469キロ。以前からマンダレーとインパールの間に国際バスを運行する計画があり、両国の会議も開かれてきたはずだが実現していない。実現すればインパールをこのルートで訪問する日本人もいると思われる。しかし反インド政府の非合法活動も存在する同地域の発展はインド政府が望んでいないことから、バス運行を含む開発は進みそうにないと聞いた。

英国の植民地支配はインドからミャンマーへのイスラム教徒の入植を増やし、インドのミャンマー国境近くの州では各少数民族にキリスト教を布教し懐柔した。チン、カレン、カチン族などの多くがキリスト教に改宗したが、仏教が深く根づいているアラカン(現在のラカイン)族はビルマ族と同様にキリスト教に改宗しなかった。ミャンマーは仏教国だが、インド国境が近づくに連れて、キリスト教の教会が増えていく。教派はカトリックでなく新教バプティスト。

1974年に成立したチン州では1948年に山岳地帯の特別区としてアラカン州から分離されている。英国支配下で昇進したい少数民族の公務員は競ってキリスト教に改宗したとされる。西洋の牧師はキリスト教の布教だけでなく、チン族の文字をアルファベットに変えさせることにも成功した。カチン州も同じである。

軍政時代に迫害されたチン族の中には、インドに逃げ込んで国連に難民認定された人も多い。軍政がキリスト教のチン族に仏教徒へと改宗を迫った時代もあったが、現在は平和で、チン州では多くのチン族が山を下りてタム一帯などに住んでいる。ティン・チョー大統領は2017年2月にチン州を4日間訪問し少数民族と交流している。(写真・文 アジアジャーナリスト 松田健)

ミャンマーが抱える民族、宗教問題

カレーからタムに至る一帯はチン州ではなくザガイン管区にあたるが、明らかにチン族が多い。タムの旅行会社経営者や仏教寺院の高僧の説明では、この辺りにあるのはキリスト教会が120カ所、仏教寺院が70カ所、ヒンドゥー教寺院が4カ所、イスラム教モスクが1カ所という数字で共通していた。

タムには仏教寺院が少ないが、中心部にあるガナパモッカ寺院のウイセカ住職はタムの宗教委員会の議長を務めている。ウイセカ氏によれば、同氏の提案で3年前から3カ月に1度の頻度で、その時の問題点を四宗教の代表者が話し合っているという。開催場所はタム地域にある各宗教の寺院や教会など。「イスラム教徒が催しを開きたいが、当局から認可されそうにないので困っているといった相談を受けたので、我々が政府に『問題は絶対に起こさせないから認可してほしい』と頼んで許可してもらったことも多い。慈悲の心で助け合う姿勢、異なる宗教を認める態度が重要。この地ではイスラムのモスクは現在ある1カ所から増やさないという約束も守られている。タムには宗教紛争はこれまでもなかったし今後も起きない」と断言した。

このような高僧がイスラム教の問題を抱えるミャンマーで広く活躍することが望まれる。タイやミャンマーの都市ではスマートフォンを持つ僧侶をよく目にするが、この高僧は「スマホは心を迷わせる。僧侶のスマホ保持は絶対禁止、当寺院内でのスマホ使用も禁止している。しかし若い僧侶の中にはスマホを隠し持ち寺の外に出て使用している人がいるかも知れませんね」と笑う。

ミャンマーで最大の問題が民族、宗教問題である。140近い民族の内で20ほどの反政府武装勢力が存在し、現在でも政府に投降していない。アウンサン・スーチー国家顧問の民族和解への努力とは裏腹に、反政府勢力同士が結びついた闘争も起きている。2016年にミャンマーの人口統計省が発表したところでは、従来135とされてきた民族数がそれ以上あった。チン族だけで53の民族があるとされてきたが、2014年の国勢調査で新民族の存在が判明している。

タムではチン族の子供だけを受け入れている孤児院を訪問できた。唯一の街道に沿う孤児院では、幼稚園から8年生まで305人が収容され、全員が明るくうれしかった。仏教徒の子供は17人、他はキリスト教徒だ。しかし宗教とは関係なく子供たちは助け合って生活している。熱心に教える先生たちの給与は4万チャット(4,000円)と少なくボランティア的ではあるが、学校前には食費付き教員寮があり無料。宗教省が認可し、予算も少しは出ているが主に寄付金で運営されている。

ザガイン管区最大の街モンユワ

タムからヤンゴンに戻る途中で数年ぶりにザガイン管区最大の街モンユワに2泊した。かつてオープン初日に泊まった時にはピカピカだったアウンサン将軍の銅像を見下ろせるホテルも、すでに古びていた。しかし10階ほどの建物の屋上のさらに上にある展望台まで登ると、116メートルと世界最高を誇る仏像(レーチョン・サチャー・ムニ、鉄筋コンクリート製)や中国が銅を採掘精錬するレパダウン鉱山などが一望できる。このような風景を見ながらの朝食は、味はともかく良い気分にはなる。

レパダウン鉱山は、2012年に野党だったスーチー氏が公害問題で中国側に理解を示す形で地元を説得し、軍政などは高い評価をスーチー氏に与えた。その後の軍政に近寄るスーチー氏の新たな戦略が、このモンユワから始まったと私は見ている。鉱山の周辺では地元の人が「中国は銅の他にも金とプラチナ(白金)を主目的にしている」と、新たに切り崩されている山を指差しながら語った。数年前まで地元民による小規模で手作業の銅の露天掘りが行われていた。それらの光景は消えており、「中国側が圧力をかけて閉鎖させた」と説明を受けた。巨大な中国企業の事業所周辺には以前はなかった高く長い塀が築かれ、中国人従業員が住む寮が増えていた。

ミャンマーの大手銀行のモンユワ支店長は「モンユワはミャンマーの交易の中心地の一つとして発展し、現在も人口が増え続け、経済活動は活発だ。当銀行支店からはインド貿易と関係が深いタム支店と、シャン州の中国との貿易基地である遠いムセ支店間の送金依頼の金額はほぼ同水準。(昨年11月に発表された)インドの高額紙幣の廃棄問題は当支店にとっては多少の落ち込み程度で済んでほっとしている」と語った。

商売の町でもあるモンユワにはインド産品を売る店もいくつかあり、店は小さくても裏に大きな倉庫を持っている。インド人が経営する「ムーンワールド」という店ではインド製のステンレス製品、生地、石鹸など日用品、食品などを販売していた。店の人は「国境のインド側のモレにある数社と連絡し合ってタム経由で商品を仕入れている。モンユワを経由してマンダレーやヤンゴンなどの都市の市場にも商品を出している」と語った。モンユワ滞在中に喉が痛くなり、薬局で薬を買う羽目になったが、この薬はインド製で強い抗生物質が入っているのか、よく効いた。

現地で沈香工場を訪問

運転手は面白いモノを作っている場所があると、モンユワから10キロほど離れたブタリンという町のはずれにある自然湖に案内してくれた。着いて分かったが、健康食品のスピルリナ(Spirulina)という「らせん形」の濃緑色の藻を繁殖させる自然湖で、湖畔では塩田のように天日で水分を蒸発させて乾燥スピルリナを製造している工場もあった。ミャンマーのFAMEという健康食品メーカーがシンガポールでも大型店を構えて乾燥スピルリナ製品などを販売しており、何度か買って飲んだことがある。そのスピルリナの産地が突然目の前に現れたのだ。施設内はいつも公開しているという。

次に運転手は「以前、私も働いていたテッ(木)ムエ(香り)の製品を作る工場に行ってみないか」と誘ってくれた。何のことか分からなかったが、到着してみると、なんと沈香(じんこう)の加工工場だった。沈香は香木の王様とされ、白檀(びゃくだん、Sandalwood)などと同様に有名だが、上質で樹脂分の多い沈香は水に沈むため沈香と名付けられており、沈水木、沈水と呼ばれる。

工場を経営するAGARRBATHIプロダクション社のタン・タン・アエ(Than Than Aye)社長は20歳で沈香の道に入り、退役軍人の父親に教わりながら43年。作業場では10人ほどの男性が白い「Agar Wood」から暗褐色の油の部分を彫り出す作業を休みなく続けている。「ビジネスにリスクは付き物。暗褐色部分が多く出てくれば利益になり、削っても白い部分だけなら大損。バンコクのナナにある沈香の店もお得意様」と語った。水に沈む重い沈香ではキロ10万米ドルするものもある。

タン・タン・アエ社長はインド人とユダヤ人のハーフの父を持つ父親(U Mya Pe)とミャンマーのモゴック出身の母親(Daw Mya May)との間に生まれた。国境のタムでインド人バイヤーと組んでビジネスを展開したが、インド人が税関で問題を起こし輸出できなくなったのでモンユワに移ってきたという。

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