タイ鉄道新時代へ
【第62回(第3部22回)】タイからビルマへ。鉄道等輸送をめぐる旅その4
史上例のない短工期で開通した泰緬鉄道。輸送量は日量1000トンと当初予定の3分の1と脆弱であったが、峻険な国境を駄馬で越えていた頃と比べれば格段の兵站力の向上となり、日本軍のビルマ(現ミャンマー)攻略作戦に寄与していった。だが、ビルマ西にある英印軍の反攻が本格化すると各地で日本軍は敗退。こうした折りに起死回生策として実施に移されたのが、史上最悪の作戦として名高い「インパール作戦」だった。大本営による正式認可は1944年1月7日。日本が敗戦へとひた走る1年半前のこと。そして、泰緬鉄道を通じて日本軍の敗退が開始されるのであった。(文と写真・小堀晋一)
インパール作戦は当初、初代天皇の神武天皇が即位したとされる44年2月11日に実施が予定されていた。ところが、タイ国内の道路建設などに要員が駆り出されて集結が遅れ、3月8日に第33師団の作戦行動実施に伴って始まった。インド北東部の軍事基地インパールを、東、南東、南の3方向から攻撃して陥落させ、連合軍が中国の臨時重慶政府に行っていた軍事支援を絶つのが目的だった。標高3000メートルを超えるアラカン山脈を牛や山羊、水牛で越え、携行した糧秣は一人2週間分だけ。事後の食糧は「駄牛」を殺して食い、残りは現地調達するという「ジンギスカン作戦」。前代未聞の戦闘だった。
行軍は当初から苦難を余儀なくされる。駄牛の列は英印航空軍の格好の標的となり爆撃の対象に。ジャングルや山々の斜面は険しく多くの牛や山羊が谷に転落したほか、川幅が1キロもあるチンドウィン川が行く手を阻んだ。作戦開始後1ヶ月で、早くも作戦は継続困難となった。
これにとどめを刺したのが、例年より1ヶ月も早い雨季の到来だった。連日にわたる激しい雨は兵士の体力を消耗させ、食糧の入手も難しくさせた。加えて深刻だったのが、コレラやアメーバ赤痢、マラリアなど熱帯特有の感染症だった。部隊は戦わずして疲弊を繰り返し、決戦前にすでに勝敗は決していた。指揮部隊である第15軍司令部に対し、隷下の第15、31、33の各師団長は作戦の中止あるいは変更を相次いで具申。しかし、司令官である牟田口廉也中将は頑として受け付けず、次々と師団長を解任していった。
こうしてインパール作戦はなるべくして空中分解を起こし、大本営は7月1日、作戦の中止を認可。その直前少なくとも2ヶ月以上にもわたり、牟田口司令官とビルマ全域の作戦を指揮するビルマ方面軍司令官の河辺正三中将は、互いに腹の探り合いに終始して被害を拡大させた。作戦従事者約9万人に対し、戦病死傷者は少なくとも5万人以上とされる。この責任は戦後も一貫して追及されたことはない。
ビルマから敗残兵をタイまで輸送したのが、皮肉にもビルマ侵攻のために建設された泰緬鉄道だった。ビルマ中部マンダレーを南下、タウングーから山道を越え、タイのメーホンソーン県クンユアムへ徒歩で至る山越えルートもあったが、自動車も通行できないこの道を選んだ戦病傷兵は少なかった。戦後の各種研究において全体の80%程度、少なくとも4万人ほどが、モールメン(現モーラミャイン)からタンビュザヤといったビルマ国鉄駅を経由。泰緬鉄道から国境越えし、タイにたどり着いたものと見られている。
タイに撤退したうちの、ビルマで鉄道業務を担っていた部隊の多くは、そのままタイ国鉄の国境方面に近い地点で保守業務に就いた。来たるべき連合軍の反攻・進撃に備え、警備や検問などを強化する必要があった。しかし、タイ側にあっては敗色色濃い日本軍に積極的に協力する理由に乏しく、サボタージュの横行など任務の遂行は芳しくなかった。
帰還した戦闘部隊の多くも、マレー半島南部やインドシナ半島南部の防衛部隊として、体力の回復もままならないまま、マレー鉄道やタイ・カンボジア間の国際鉄道を通じて前線に再び派遣されていった。このうちインドシナ半島南部では、一帯を制圧するための「明号作戦」が発令され、ここにビルマから帰還したばかりの第2師団が合流を命じられていた。同師団は1888年編成の仙台鎮台を全身に持つ名高い伝統師団。日清戦争直後には日本に割譲された台湾を鎮圧。日露作戦にも従事した。太平洋戦争においてはソロモン諸島ガダルカナルの戦いで損害を受け、ビルマが二度目の敗退となった。なりふり構わぬ戦力投入が戦争末期の旧日本軍の特徴であった。
45年8月15日、敗戦――。帰還が果たせず、ビルマの土となった将兵たちがいる一方で、幸いにもタイへの帰還を果たし、敗戦を迎えた者たちも少なくはない。無数の爆撃機が上空を舞う中、懸命に送り届けてくれたのが、かの泰緬鉄道であった。(つづく)