タカハシ社長の南国奮闘録
第94話 雨ニモマケズ
雨にも負けず、風にも負けず……という聞きなれた冒頭。最近、宮沢賢治の詩が頭から離れない。 宮沢賢治は1896年に岩手県花巻市に生まれ、1933年に37歳の若さで世を去った。短い生涯を農業に捧げ、詩人・童話作家として生きた。 賢治の詩が世に知られるようになったのは、彼が亡くなった後のこと。数奇な運命を悟っていたかのような彼のありようは、周りにはあまり理解されなかったようだ。 賢治は盛岡高等農林学校に首席で合格したものの、研究生時代に結核を患い故郷花巻に帰京した。その後、農業高校の講師となり童話を書いたが、妹トシの死をきっかけに講師を辞め、農家を始める。 賢治は語学を学ぶために東京に幾度となく上京した。その費用は農家の人たちに近代農業の知識を教えることで稼いでいたそうだ。それ以外の周囲の人たちには、裕福な家に生まれた道楽息子と思われていた。しかし、彼自身は素朴さを備えていた。詩の中盤にもそれが表れている。 「一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ あらゆることを 自分を勘定に入れずに よく見聞きし分かり そして忘れず 野原の松の林の陰の 小さな萱ぶきの小屋にいて……」 人間は本来、このような質素で素朴な生き方が美しく、望ましいのではないかと最近強く感じる。経営者だからと言って、決して贅沢な暮らしをしなければならないというわけではない。 会社や社員へのありようにおいては、やりがいや将来の夢が持て、健康で幸せな生活を送ってもらえるような経営ができれば幸せだ。そのためには発展と成長が必要にはなるが、まっすぐな生き方をしていればそれは自然と身につき、経済活動を正常に保てるのだ。 そして何より大好きな賢治のフレーズは、「慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている……」 賢治はたぶん、生きる上でとても大切なものを見つけたのだと思う。私なら、心を満たすとても暖かい何かが心の中に灯っていないと、いつも笑っていられないし、安らかにはいられない。 賢治は文学の中に仏心を取り入れたあまり例を見ないタイプで、他から見ると変わり者なのかもしれない。だからかもしれないが、そうした姿勢が私は好きだ。 タイの根底には仏教思想があり、タイ人の姿を見ていると、どこかそういったところを感じる。タイに来た当初は直感的にタイの良さを感じていたが、私がタイを選んだ本当の理由は、そうした思想がタイ人の心根に根付いているからかもしれない。 微笑みの国といわれる由縁は、ただ南国だからとか、マイペンライに代表されるコトなかれだからとかいうことではなく、微笑みが幸せや大らかな心をもたらすことを、タイ人が仏の教えにより知っているからなのかもしれない。 経済の行方が分からなくなっている昨今だからこそ、耐え忍ぶのではなく、人としての在り方を宮沢賢治から会得したい。
2019年11月1日掲載
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