タイ鉄道新時代へ

【第1部/第14回】相次ぐ都市鉄道計画の挫折

第5次国家経済社会開発計画(1982年~86年)に基づき策定された東部臨海石油化学コンビナート建設計画は、20数年ぶりとなる新しい鉄道(貨物線)をタイにもたらしたが(前回詳報)、首都バンコクでは道路渋滞が深刻化するばかりで、一向に有効な手立ては打てずにいた。そこで政府・国鉄は90年代の一時期、北部本線のバンコク~ドンムアン間、東部本線のバンコク~フアマーク間に通勤通学客を当て込んだ近郊列車を次々と走らせ、急速に高まる大量輸送問題の解決を図ろうとした。ところが、ダイヤの増便は踏切による渋滞をかえって悪化させるだけで何ら解決には至らなかった。この時期、バンコクの都市交通問題は「待った」が効かない状況にまで陥っていた。今回は、挫折を繰り返した「都市鉄道建設計画」について。(文・小堀晋一)

 

戦後の間もなくから深刻化したバンコクの道路渋滞だったが、政府もただ事態を傍観しているわけではなかった。1970年代には「交通問題に関する調査」を実施。76年にまとめた「中期計画」の中で、80年までにバンコク中心部に3路線から成る総延長59kmの「都市鉄道」の建設を提言していた。①モーチット~プラカノーン、②ウォンエンヤイ~ラープラーオ、③ダーオカノーン~マッカサンの3区間。中期計画をうけた「長期計画」では、これら3区間のそれぞれ延伸も求めた。

最大の問題は逼迫する財政の中でどう財源を確保するかにあった。政府は当初、60年~70年代の高速道路建設であったように、国外からの借款で賄うことを検討していた。だが、巨額の借り入れに対する財政の負担が懸念され、民間出資に頼るほかは方法がなかった。結局、当初案では応札する企業が現れず、路線を①モーチット~プラカノーン、②ウィッタユー~ラープラーオの2区間34kmに縮小して入札を実施したところ、カナダ企業が落札。92年2月、都市鉄道の免許が交付された。期間30年の軽量鉄道(Light rail transit, LRT)方式。85年開業のカナダ・バンクーバーの高架鉄道「SkyTrain」をモデルとしたことから、「スカイトレイン計画」と命名された。

ところが、この直後の4月にスチンダー国軍司令官が非議員ながら首相に指名されると、財界・市民を挙げての反政府運動が持ち上がり、タイ経済は麻痺状態に。5月には市民ら300人が死亡したとされる「5月流血事件」が起こり、都市鉄道の建設どころではなくなってしまった。政府は同年6月、事業免許を取り消し、タイ初となるはずの都市鉄道は幻に終わった。

スカイトレイン計画から少し遅れながら進行していたもう一つの都市鉄道建設計画もあった。「ホープウェル計画」。80年代半ば、香港にある開発会社ホープウェル社が提案した在来線の高架化による都市鉄道の建設計画だった。バンコクを走る国鉄の路線敷地内に3層構造の橋脚を建設、最上階に高速道路、中層階に在来線と都市鉄道、低層階には一般道と商業施設を配置するという壮大な内容だった。総延長60km。用地購入の負担がないことから政府・国鉄内にも異論は少なく、90年11月に初めてとなる免許交付、建設を待つばかりとなっていた。

ところが、免許申請時に出資問題などほとんど何も決まっていなかった同計画は遅れに遅れ、実際に着工に至ったのは93年になってから。第1期工事区間として①ランシット~ヨムマラート、②ヨムマラート~フアマークが選ばれ、橋脚が建てられたが、途中で財源の目処が立たなくなると、ついに工事そのものもストップ。政府も98年12月開催予定のアジア競技大会タイ大会に向けて都市鉄道の建設を急ぐ必要から、97年9月に免許を取り消す措置を講じるしかなかった。この時に建てられた橋脚は現在も放置され、さながらゴーストタウンのような無残な姿を晒している。

アジア競技大会タイ大会までの都市鉄道建設は、タイ政府の国際公約でもあった。このため、政府はバンコク都が計画した新たな都市鉄道建設を進める道を選んだ。都内を走る都道上に橋脚を建て、2路線全長23.7kmの高架鉄道を敷設するという事業計画。落札したのは、バンコク大量輸送システム公社(英名:BTS、Bangkok Mass Transit System Public Company)という鉄道事業運営会社だった。不動産業を生業とする親会社の名前を採って、「タナーヨン計画」と命名された。

認可されたのは、①モーチット~オンヌット(現BTS・スクンビット線)、②国立競技場(サナームキラーヘンチャート)~サパーンタークシン(同シーロム線)の2路線。当初計画では軽量鉄道も検討されたが、最終的に普通鉄道方式が採用され、軌道は国鉄のメートル軌よりも広い標準軌(1435mm)となった。直流750Vの給電用レールを備えた第三軌条方式。建設に当たっては政府及び都に財源がなかったことから、民間事業者が施設を建設し、管理・運営後に所有権を管理者に戻すBOT(Build Operate Transfer)方式が採られた。

工事は94年3月に着工となった。ところが、97年7月に発生した通貨危機が建設に待ったをかけた。バーツは大幅に下落、工事も大きく遅滞を余儀なくされ、政府が当初目標としていたアジア競技大会日の開業は実現不可能となった。タイで初めての都市鉄道の誕生は、その1年後の99年12月だった。

この間、92年の政治混乱で白紙に戻っていた「スカイトレイン計画」も再び始動していた。事業区間を大幅に変更縮小した内容で、国鉄の始発駅でもあるフアランポーン~北部バンスー間の20km。92年に設立された首都圏電気鉄道公団(MRTA)が事業主体となった。全区間地下化の方針が採られたことから建設費が高騰し、最終的に上下分離方式を採用。施設の建設についてのみ日本からの借款が当てられることになった。運営と車両の調達については民間のバンコクメトロ社(BMCL)が落札。工事は遅れがちで、タイ初の地下鉄(MRT)として開業したのは2004年7月のことだった。

MRT建設をめぐっては、興味深い逸話が存在する。2000年9月、BMCLは3両連結21編成分の鉄道車輌と信号、変電設備、自動改札機など設備納入にかかる独占交渉権を、日本の三菱商事と三菱電機、仏アルストムの企業連合に与える協定を交わした。初めての地下鉄だけに慎重になりたいBMCL。日仏企業連合に対し銀行団との接触を制限するなどナーバスな状態にもあった。ただ、そうした中でも01年10月には一部納入契約が交わされるまでとなっていた。

驚愕の「事件」は2カ月後に起こった。師走も押し迫った12月27日。BMCLから企業連合側に1通の文書が届く。「交渉を停止する」という一方的な内容だった。寝耳に水だった企業連合。調べてみて分かったのは、BMCLが銀行団との融資契約を極秘のうちに済まし、文書が届いた翌28日付けで独シーメンス社と設備納入にかかる独占契約を締結したという信じがたい事実だった。BMCL側は後に「将来のBTSとの接続を可能にするため、BTSと同じシーメンス社製の車両になった」と説明したが、誰もが別の理由を疑った。

事業計画から20数年。紆余曲折の末に誕生したBTSとMRTという二つの都市鉄道。だが、その後は延伸区間も含め、しばらくの間、新たな路線の出現とはならなかった。その背景にあったのが、新たに認識され広がった都市鉄道の〝政治利用〟だった。次回は計11路線と大盤振る舞いの末に策定された「バンコク鉄道大量輸送マスタープラン」について。(つづく)

 

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