タイ鉄道新時代へ
【第26回(第2部/第8回)】現存する最古の旧民営鉄道「メークローン鉄道」(下)
これほどまでに住民の暮らしに溶け込んだ鉄道路線がタイにあっただろうか。バンコク西部ウォンウェンヤイを起点としマハーチャイとを結ぶ東線と、バーンレーム~メークローン間の西線2路線から成るタイ国鉄メークローン線(旧メークローン鉄道)。マハーチャイ、メークローンの2つの終着駅前には線路をまたがる形で青空市場が広がり、鮮やかに山積みされた山海の幸が威勢の良い掛け声とともに人々の手に渡っていく。その間を縫うように、静かに駅舎に滑り込んでいく列車。どこか遠慮しがちで、申し訳なさそうにといった様子にも映る。ここでは主客が完全に入れ替わっており、市場の真ん中を列車が許しを得て特別に通過をさせてもらっているようだ。風情と旅情たっぷりなメークローン線。本稿では、その主な見どころを紹介する。(文と写真・小堀晋一)
ここはサムットソンクラーム県の県都ムアン・サムットソンクラーム郡にある終着駅メークローン駅。踏切の脇にある駅舎の屋根に取り付けられたスピーカーから、間もなく列車が通過することを知らせるチャイムが鳴り響いている。チャイムはせいぜい5分をはさんで計2回。この短い間に線路の両側に広がる店舗は商品を片付け、日差し除けのテントやパラソルを一斉に畳んでいく。パタパタパタ…。まるで反転フラップ式の時刻板を見ているかのようだ。その様子から、青空市場はいつしかタイ語で「ตลาดร่มหุบ(傘を畳む市場)」と呼ばれるようになった。
列車は極端に速度を落として通過するため、短い編成車両でもそれなりに時間はかかる。この間、テントの持ち主らはじっと支柱を抱え、ひたすら通り過ぎるのを待つ。手を少し伸ばせば、車両まで届こうかという至近距離。接触事故でも起こりそうなものだが、近くのおばちゃんに聞くと、これまでにそのようなアクシデントが起こったことは一度もなかったというから驚きだ。物珍しさに、写真に収めようという観光客の姿もあった。
「傘を畳む市場」は国鉄の敷地内にあるため、出店を希望する店舗から国鉄が土地の使用料金を徴収している。店舗主らに聞くと、立地などにより1店舗あたり一日200~400バーツだとか。市場には100数十の店舗が常時出店しており、毎日の使用料収入は最大4万~5万バーツにも。1日3往復しかない超ローカル線のメークローン西線にとって、最大の収入源ということになる。
店先に並んでいるのは、近くに漁港がある関係から水産物が最も多く、エビ、カニのほか、アジやイカ、貝類などの海産物、それにナマズなどの淡水魚及びそれらの加工品まで。日本では天然記念物に指定されているカブトガニなんてものもある。野菜の種類も豊富で、色とりどりの新鮮な野菜が渦高く積まれている。台所用品や清掃用品を売っている店もあり、家庭で使うものなら一通りのものをここで用立てることが可能だ。
メークローン駅を出発した列車は次第に速度を上げていく。しばらくすると、右側に白鷺城にも似た大きな校舎が見えてきた。学校だ。休み時間なのだろうか。子供たちが窓から身を乗り出してしきりに手を振っている。素朴なタイの子供たち。思わず右手がシャッターを押した。次に見えてきたのは、海岸沿いに広がる塩田だった。タイではバンコクから南部に向かう幹線沿いでよく目にすることができる。塩田で作られた天然塩はミネラルが多く、味に深みがあるとして土産品としても人気が高い。
列車はマングローブの林を抜けながら進んでいく。途中で速度を速めたり、不意に停車場で数分間も停車することがあるが、説明などは一切ない。乗客もそれが当たり前だから、特に気に留める様子もない。特徴のない景色を車窓からぼんやりと眺めているうちに、列車はようやく西線の起点駅バーンレームに到着した。ここまでダイヤから遅れること30分の計1時間半。だが、日没までにはまだ時間はたっぷりある。慌てる理由もなかった。
バーンレーム駅を降り、ターチン川に臨むはしけに向かう。すると、通りの入り口に止まっていた人力サムロー(3輪車)の運ちゃんと、たまたま目が合った。カメラを向けるとニッコリ。なんだか心が温かくなってパチリ。思いがけない記念となった。渡し船にはすでにバイクや渡航客が乗り込み、出港を待っていた。ほどなく動き出すと10分ほどかけて川を渡り、マハーチャイ側のはしけに着いた。
東線の終着駅があるマハーチャイは、サムットサーコーン県の県都。正式にはムアン・サムットサーコーン郡と言うが、18世紀当時のマハーチャイという名称が今も人々に親しまれている。河口までわずか4キロの水産の街。人口にして6万人足らずの郊外の土地に、多くの水産関連企業が軒を連ねる。バンコクから南西に30キロ弱。水産物の価格は都心の半値近くと安く、ここまで買い求めに来る人もいるほどだ。
駅に到着。だが、午前中にあった線路上の市場は営業を終え、すでに撤収されていた。構内には列車を待つ親子連れの姿が。抱っこされた女の子は1歳を少し経ったころか。向けられたカメラにどう反応したらよいのか分からず、こわばる表情がまた可愛らしかった。発車時間までまだ30分もあった。どっかとベンチに腰を下ろす。長閑な鉄道の日帰りの旅が間もなく終わろうとしていた。(つづく)