タイ鉄道新時代へ
【第1部/第5回】泰緬鉄道とタイの国際鉄道網
戦争に翻弄され続けたタイの鉄道史。その国際鉄道網の完成は、皮肉にも第2次世界大戦(太平洋戦争)中にタイに進駐した日本軍の手によって成し遂げられた。鉄道敷設計画の俎上に幾度も上りながら、時の財政難や難工事などを理由に何度も中断や延期が繰り返されてきた曰く付きのルート。東部アランヤプラテート(サケーオ県)~カンボジア・プノンペン間、バンコク近郊ノーンプラードゥック~西部ナムトック(カンチャナブリー県)~ビルマ・タンビュザヤ間(泰緬鉄道)などはその代表格で、これらの路線は現在は大半が廃線とされ、かつて鉄道が走っていたことさえ知らない人もいるほどだ。連載第1部第5回は、前回に引き続き戦争がタイの鉄道史に与えた影響について考察する。(文・小堀晋一)
日本軍のタイ進駐は、太平洋戦争の開戦となった1941年12月8日直後から始まった。枢軸国ドイツの求めに応じてすでに仏印を勢力下に抑えていた日本軍は、カンボジア・プノンペンを経て、失地回復によりタイ領となっていた現カンボジア西北部バッタンバンやバンコク近郊中部サムットプラカーンのほか、プラチュワップキーリーカンやチュムポーン、ソンクラーといったタイ沿岸部の要衝地に進出した。英領マレー(マレーシア)の制圧と西部ビルマへの侵攻が主な目的だった。
このうち、ソンクラーやパッタニーなど深南部方面には、もっぱらマレー侵攻を画策する陸軍主力部隊が上陸。駅などの鉄道拠点や飛行場の占拠を行った。日本軍はタイを友好国と位置づけ、出来る限りの武力の行使を避けつつ早期の軍事同盟条約の締結を望んでいた。ところが、タイのピブーンソンクラーム首相が状況を見定めるため一時連絡を絶ったことから、国境を警備するタイ国軍や警察などと散発的な戦闘となり、全域で数百人の戦死者が発生。こうした状況は、日泰攻守同盟条約が締結される12月下旬まで続いた。
日本軍のタイ国内通過と作戦行動を容認する日泰攻守同盟条約が公布された12月21日以降、日本軍とタイ国軍や警察との戦闘行為はほぼ見られなくなったものの、今度は条約締結の事実を把握した米英両国がタイ国内の都市部に爆撃を加えたことから、タイは42年1月25日、両国に対し宣戦を布告。枢軸同盟側の一員として太平洋戦争に加わる道を余儀なくされた。
一方、タイ南部に上陸した日本軍はマレー半島南端に向けて敗走する英軍を追走。徴用した南部本線の国際列車を軍事に転用し兵士と物資を南方に送った。ただ、英軍は随所で鉄道施設を破壊したことから、すべての修繕が終了しバンコクからシンガポールまでの一貫輸送が可能となったのは42年2月末になってからのことだった。この結果、1日あたり2~3往復の国際列車が、バンコク~マレー~シンガポールを往復することとなった。
東部本線の国際鉄道も、未開通区間だったアランヤプラテート~モンコンブリー間を日本軍が開戦からわずか2週間ほどで完成させ、プノンペン~バンコク間の直接輸送が実現することになった。プノンペンから先、ベトナム・サイゴンまでの区間はメコン川の水運が活用された。これにより、仏印からは当初1日あたり3~4往復の国際列車がバンコクに向けて走行し、軍需物資や食糧を運んだ。マレーのほか、いずれ戦闘が本格化すると見込まれていたビルマ方面に向けてもこれらの物資が送り届けられた。
ビルマ攻略に向けた輸送では、バンコクから先については北部本線が軍事転用された。ピサヌロークあるいはサワンカロークまで鉄道で物資を運び、自動車に積み替え、北東部ターク県メーソートーなどを経由して国境を超える輸送ルート。東部本線の開業と同様、41年末までには整備を終えていた。このころ、バンコクから直接ビルマを目指す後の「泰緬鉄道」は、まだ構想の段階だった。
ただ、こうした軍需物資充足のための国際鉄道の整備も、戦争の進行とともに、さまざまな歪みを生じていった。まず、戦時下、蒸気機関車に供する薪や潤滑油の不足が露呈し始めた。マレー半島南部に向けて列車を増便させた結果、マレー南部に貨車が大量に滞留することとなり、カンボジアなどの集積地で貨車の不足が顕わとなった。日本軍は中国大陸などから貨車を船舶輸送するなど対策を講じたが、東部本線や南部本線、北部本線では一部軍用列車のみならず一般列車の運行にも影響が及んだ。英軍の爆撃などで路線が寸断されるなどの被害も少なくなかった。
太平洋戦争勃発後、日本政府は「大東亜共栄圏」構想を推し進めるための東アジア及び東南アジア地域の交通政策を閣議決定。「大東亜縦貫鉄道構想」を打ち出した。各国ごとに敷設されていた鉄道網をレールで結び、「自給自足経済」を促進するための国際鉄道網として戦時一貫運用することとなった。日本列島から朝鮮半島を経由し、満州、中国(支那)、ベトナム、タイを結んで、タイから先は南にシンガポール、西には平定したばかりのビルマ向けて分岐するルート。支線も合わせれば総延長1万kmに及ぼうかという壮大な計画だった。当面、未開通の重要3区間の完成が急がれることとなった。
3区間とは、①中国から仏印ベトナムに至るルート(南寧~ハノイ)、②仏印ベトナムからタイに至るルート(タンアップ~ナコーンパノム)、③タイからビルマに至るルートの3つ(図参照)。ただ、いずれも難工事が待ち受けており、財政面の制限もあって優先順位を付けなければならなかった。①については、海運で代替が可能とされた。②については、かつて計画として浮上したことがあったものの費用と工期の面で問題点が大きく、サイゴン回りのメコン川・プノンペンルートで当座を凌ぐこととなった。結果、最優先とされたのがビルマまでの路線、いわゆる「泰緬鉄道」だった。
タイからビルマに至る鉄道敷設計画は、立憲革命前、カムペーンペット親王の時代に南部の玄関口プラチュアップキーリーカーンからビルマ南東部の都市イェーを経由するルートが浮上したのを皮切りに(第3回参照)、第2次大戦開戦前夜には北部ターク県メーソートーからビルマに至るルートがそれぞれ検討されたが、財政問題などを理由にいずれも見送りとされた経緯を持つ。今回、日本軍が採用したのは、南部本線ノーンプラドゥックからテナセリム山脈を横断し、イェー線のタンビュザヤを結ぶ全長415kmの最短ルートだった。
泰緬鉄道の工事は42年6月に着工された。当初の完成予定は43年末。1日あたり3000トンの輸送力を見込んでいた。だが、現場は密林で覆われたうえ、猛獣が出没する地域。赤痢やコレラなどの疫病も頻繁で、作業は難航を極めた。重労働には連合軍の捕虜やビルマ人の労務者らがあてがわれ、捕虜6万人のうち1万5000人が、労務者20万人のうち7~10万人が命を落としたとされる。連合国側からは「死の鉄道」と呼ばれた。
着工から間もなくは大洪水にも見舞われ、工事が大幅に遅滞。このため日本軍は計画の変更を余儀なくされ、輸送力を3分の1に落として工期の短縮を急ぐことになった。こうして泰緬鉄道は43年10月、全線で開通した。だが、輸送力が1日あたり1000トンではとても十分な軍需物資は運べない。そこで日本軍は新たに補助路として南部チュムポーンからクラ地峡を横断する「クラ地峡鉄道」の建設も同時に進め、43年末までに完成させた。ただ、ビルマ側のカオファーチーから先に鉄道は存在しない。このためビルマ越境後は、アンダマン海を船で北上しなければならなかった。
日本軍が泰緬鉄道建設を急いだ背景には、軍事作戦上からの大きな狙いがあった。当時、中国大陸では日本軍と内陸部、重慶に臨時遷都した中華民国政府軍が泥沼の戦いを繰り広げていた。難攻不落の山岳地帯が日本軍の行く手を阻んでいた。その中華民国政府を側面から支援していたのが、英領インド北部アッサム地方などから行われていた連合国側の大規模な物資輸送だった。補給路は蒋介石主席の名を採って「援蒋ルート」と呼ばれた。この援蒋ルートの遮断こそが、日本軍に求められた喫緊の課題だった。
大河チンドウィン川と印緬国境にそびえる峻険なアラカン山脈を越え、北部インドの補給拠点インパールの攻略を目指したのが「インパール作戦」である。作戦の最大の目的が援蒋ルートの遮断だった。だが、ビルマ奥地までの広大な大地はジャングルが覆う未開の地。このため、弾薬や糧秣以外にも多量の物資が必要とされ、それらをもっぱら運んだのが泰緬鉄道だった。東亜共栄圏建設を進める日本軍の関与によって完成したタイの国際鉄道網。それはタイ経済の新たな活力となった一方で、「敗戦国」として迎えた戦後は新たな試練を与える誘因ともなった。次回は、戦時下に完成したタイ国際鉄道網のその後。