タイ鉄道新時代へ
【第30回(第2部/第12回)】廃止線(上)パークナーム鉄道とタータコー線
国土の近代化と安全保障上の対策を目的に19世紀末以降始まったタイの鉄道敷設事業。北部、南部、東北部、東部の4つの基幹路線を中心にいくつもの支線や新線が建設され、地方開拓などの原動力とされてきた。ところが、その後の市場の変化や国際情勢の移り変わりを背景に計画は何度も見直しが行われ、採算が見合わなくなって廃止された路線も決して少なくない。今回から上下2回は、かつてタイの大地を運行しながらも、さまざまな事情から取り止めた「廃止線」を取り上げる。初回は、タイ最古の鉄道パークナーム鉄道と、完成まで間もなくとされながら一度も本線からの乗り入れがないまま姿を消したタータコー線。(文と写真・小堀晋一)
毎年3月26日は、タイ近代化の礎を築いた鉄道の誕生を祝う「鉄道の日」。今から120年近く前の1897年の同じ日、中部アユタヤを目指す一番列車が始発駅バンコク(フアランポーン)を発車したことを記念して設けられたものだ。だが、この日をタイのおける鉄道「初お目見えの日」とするのは正確ではない。それよりも4年ほど前、別の場所にあった同名の「フアランポーン駅」から汽笛を挙げ運行を開始した鉄道車両があった。イギリス人技師とデンマーク人海軍将校が共同で興した民営の「パークナーム鉄道」。これこそがタイ最古の鉄道だった。
同鉄道は、現在のフアランポーン駅から少し離れた場所を起点とし、ラマ4世通りにほぼ沿う形で東進。プラカノンでスクンビット通りに乗り入れ、チャオプラヤー川のパークナーム(河口の意味)に至る全長21.3kmで開業した。途中駅として、サラデーン、プラカノン、バンナー、サムローンなど計10を配置。軌道は後にタイ国鉄が採用する狭軌のメートル軌(1000mm)だった。免許は1886年に交付。ラーマ5世が「チャックリー改革」を進めていたころだった。
当初は、サムット・プラカーン県パークナームまで1日3往復のダイヤで運行を開始。運賃は全線均一で50サタン(0.5バーツ)。このころの1日あたりの利用客は400-500人ほどだったとみられている。一日毎の売り上げは200-300バーツほど。簡単には比較できないが、経営は順調だったらしい。20世紀になると、輸送力の向上を目指して客車の編成を2両に拡大。1912年からは電化が開始され、まずはフアランポーン~クローントゥーイ間。17年にはバンナーまでの区間を電気車両が走行、間もなく全線で電化を完了した。このころの営業利益は15万バーツ強に上っていた。
確かな運行実績を挙げていたパークナーム鉄道だったが、ネックとなったのが50年間の鉄道事業免許の更新だった。タイ政府は当初、優れたヨーロッパの技術を導入するため積極的に外資を導入。国土の近代化に努めた。ところが、国力の一定の増強とともに必要性も薄れ、安全保障上の見地からも次第に外資の排斥に傾くようになった。一方、会社側は軌道に乗り出した鉄道事業を継続しようと、設備一式をサブリースに置き換えるなどさまざまな手段を講じ延命を図った。だが、政府が首を縦に振ることはなかった。
決め手となったのが、32年に起こった立憲革命だった。青年将校らが政治の実権を握るとナショナリズムが台頭。外国勢力一掃に向けた気運が高まった。新政府も会社側に対し事業の買収を打診。同時にパークナームまでの道路整備を進め、バスを運行させる計画をちらつかせた。このため、会社側はこれ以上の事業継続は困難と判断し方針を転換。総資産を57万バーツとして交渉に臨んだが、政府が提示したのは最大でも35万バーツと大きな隔たりがあった。結局、押し切られる形で会社側が折れると、新政府は運営一式を引き継ぎタイ国鉄に編入。こうしてタイ初の民間鉄道は満50年の歴史とともに消滅することになった。
編入後も運行を続けていたパークナーム鉄道(編入後はパークナーム線)だったが、50年代前半をピークに売り上げが減少。15分刻みのダイヤで運行を開始したバス路線に客を奪われ、赤字経営に転落していった。とどめを刺したのが、50年代後半からのクーデターで実権を握ったサリット元帥による「美観政策」だった。バンコクの深刻な渋滞を招いているのは鉄道が原因だという異様な価値観を持つ同元帥は、都市部からの交通機関追放に執念を燃やした。中でもパークナーム鉄道は格好の餌食となった。この時でも1日8往復、日々の利用客が3500人あった同鉄道はこうして標的となり、59年末限りでの全線廃止を余儀なくされた。
バンコクから北に約204km、北部本線にある三等駅がナコーンサワン県タークリー郡にあるフアワーイ駅だ。1日4往復しかない1面だけのローカル駅。ここを起点として計画されたのが幻の支線タータコー線だった。同県内のタータコー郡とを結ぶ約40km。北部本線がパークナムポー(ナコーンサワン県)まで延伸された2年後の1907年に、早くも一部暫定開業された軽便鉄道(軌道600mm)が前身だ。そもそもが沿線の森林から、蒸気機関車向けに切り出した薪の搬出を行うために敷設された支線。だが、非公式に始めた旅客事業が堅調に推移。このため、メートル軌に拡張し本線と接続させる工事が戦後の47年から始められていた。
ところが、財源不足から工事は断続的に中断を繰り返し、55年ごろには完全にストップ。それでも既存路線を使って米やトウモロコシの輸送を細々と継続していたが、改軌したレールが終着駅のタータコーに届くことは最後までなかった。パークナーム鉄道同様に、政権を掌握したサリット元帥が運行の中止を決定。64年までに工事中も含めレールは全て引き剥がされ、跡地は地方道に転用された。今ではここに、鉄道があったことを知る人さえ少なくなっている。
タイの鉄道は「サリット後」も長らく冬の時代を迎えた。新たな鉄道の本格的な建設は99年末の高架鉄道BTSと2004年の地下鉄MRTの開業まで待たねばならなかった。BTSもMRTもその一部に、かつてのパークナーム鉄道の路線と重複する区間がある。「鉄道は渋滞を招く諸悪の根源」として撤去されてから半世紀。その有用性に今ごろ気付いたのだとすれば、何とも皮肉というよりほかはない。(つづく)