スー・チー政権続くミャンマー <前編>
2020年11月8日に総選挙が実施されたミャンマーでは、アウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相(以下スー・チー氏)が率いる国民民主連盟(NLD)が上下両院の改選議席の8割以上を獲得する圧勝、4月1日からNLD政権の2期目の5年間がスタートする。これまで5年間のNLD政権下でミャンマー経済は低迷し、NLD公約の民族融和、憲法改正問題も進展できなかった。
選挙を強行実施しNLDが圧勝
2020年11月8日の総選挙は、国軍系の連邦団結発展党(USDP)や「ロヒンギャ族」問題や反政府軍活動を抱えるラカイン(旧アラカン)州の政党などが、治安面やコロナ感染増から選挙活動がほとんどできない現状だから総選挙の延期を求めたが、スー・チー氏は当初予定通り強行実施した。 今回の総選挙では、上院161、下院315の計476の改選議席で争われた。上院、下院の総定数は664議席だが、軍指名の軍人枠25%166議席あり、それを除くと498議席。さらに選挙管理委員会では、軍事衝突が続くラカイン、シャン、カチン、カレン、モン州の一部などで総選挙実施を見合わせたことから、これら地域の22議席を除いたのが476議席だった。NLDはこの上下両院の改選議席の8割以上にあたる396議席を獲得した。2015年総選挙の390議席をも上回った。 現在75歳のスー・チー氏は次回総選挙時には80歳だからそれまでに引退するという見方もある。しかしミャンマー人の知人には、「マレーシアのマハティール氏が90代で首相を務め、米国ではバイデン氏が79歳で大統領。スー・チー氏も次回の総選挙にふたたび立候補して欲しい」と言う人もいる。 今回の総選挙ではシャン州とラカイン州の地元民族系の政党を除き、各地の少数政党の票が伸び悩んだ。しかし少数民族が最大与党のNLDから立候補したり、仏教徒中心のNLDなのに今回の総選挙で2名のイスラム教徒を公認し2人共当選させている。 反政府軍の破壊工作が続く北部のカチン州で少数民族系3党が合体して新党の「カチン州人民党」を2019年に誕生させ、今回の総選挙で同党から67名が立候補し4名が当選した。軍政時代に学生デモのリーダーだったコー・コー・ジー氏は2015年11月の総選挙でNLDに公認されなかったことを不満として人民党(PP)を結党したが、自身も含め当選者を出せなかった。モン州でもスー・チー氏とNLDを見限って新党を結党した人が落選、NLDはモン州の当選者数も増加させた。 国軍時代に序列3位の大将で、テイン・セイン大統領の後継者と見なされた時期もあったトゥラ・シュエ・マン氏は2019年2月に国軍系の連邦団結発展党(USDP)の反主流派を率いて自らが党首となって連邦改善党(UBP)を結党した。今回の総選挙でUBPはNLD、USDPにつぐ924名もの立候補を立てたが、当選者を出せなかった。この敗戦が明らかになった時点でシュエ・マン氏はすみやかにNLDの勝利を祝福している。シュエ・マン氏は2010年11月の総選挙で当選して下院議長、USDP党首を務めたが、2015年11月の総選挙では落選していた。同氏はNLDに近寄った時期もあり、憲法の改正方針も掲げていた。
今後も軍の支配が続く
表向きは民政化されたミャンマーだが現在も国防、内務、国境の3省は軍が掌握している。ミャンマーで「2008年憲法」と呼ばれる現行憲法で、国家の非常事態時には大統領は国軍最高司令官に全権を委譲できると規定している。「2008年憲法」では連邦議会の上下両院それぞれの議席の25%が国軍指名の軍人で構成され、憲法改正は75%以上の賛成票がないと成立しないことから憲法改正は至難。外国国籍の配偶者や子供を持つ人物は大統領に就任できない規定から、スー・チー国家顧問は現憲法では大統領にはなれないこともあり、憲法改正を目指している。 憲法改正はNLDの公約。5年ぶりの総選挙の年に入った2020年1月末、NLDは連邦議会に「2008年憲法」の改正案を提出した。ミャンマーでは選挙で選ばれない軍人議員枠が憲法改正を不可能にしている。そこで連邦議会に軍人議員枠25%の引き下げる内容の改正案を提出したが2020年3月10日の連邦議会で否決された。NLDの提案を受けて、2019年2月に憲法改正に向けた合同委員会が連邦議会に設置されていたが、NLDが希望する改正案については軍人議員票でことごとく否決された。 「2008年憲法」は14万人とも言われる死者を出した大型サイクロン「ナルギス」に直撃された直後の2008年5月の国民投票を経て制定されている。軍政はこの国民投票について、「投票率は98%で92%が賛成票を投じた」と発表したが、そんな数字を信じるミャンマー人はいない。 2015年11月の総選挙の圧倒的勝利でスタートしたNLD政権の公約が民族の融和だったが、前テイン・セイン政権のようには停戦合意が進まないどころか、戦闘が拡大した。ミャンマーの人口は約5300万人でその7割がビルマ族でスー・チー氏もビルマ族。ミャンマーには大きく分けて8つの部族と130以上の少数民族がいる。ミャンマーの正式国名はミャンマー連邦共和国で、少数民族名を掲げる州が7つある。現在も20以上の反政府武装勢力が活動しており、国内の一定地域を支配している。 スー・チー氏の父親で建国の父とされるアウンサン将軍は少数民族の連邦国家をめざす「パンロン会議」をシャン州のパンロン(PANGLONGはシャン語で英語はPINLON)で1947年2月に開いた。スー・チー氏は「21世紀のパンロン会議」と名付けた連邦和平会議を2016年8月31日から9月4日までの5日間に渡り首都ネーピードーで盛大に開催した。この会議にはテイン・セイン前大統領時代に停戦に応じた8武装組織や政府軍との戦闘中のKIA(カチン独立軍)、数万もの武装勢力を誇る反政府武装軍であるワ州連合軍の代表など18の反政府軍の代表、当時の国連事務総長も出席した。そして「パンロン会議」から70年の2017年2月を目途にミャンマー全土の武装少数民族と停戦協定(NCA)署名をめざすことになった。 これは少数民族との関係が改善され内戦終結に向かう大きな一歩になるはずだった。だが2016年8月末からの会議から2か月余が過ぎた2016年11月20日、北東部のシャン州のムセでカチン独立軍(KIA)、など4つの武装組織が北部同盟(NA)を結成して国軍を襲撃した。第2回「21世紀のパンロン会議」は2017年2月の開催を決めていたが、3月に延期された後にようやく5月24日に開催され、停戦協定(NCA)署名済の8勢力の他、未加入のKIAなど7武装勢力も参加した。会議は当初予定より延長されて29日まで議論を続けたものの、武装解除など肝心なテーマは何も決めることができなかった。しかもこの2回目も会議が開かれた翌月の17年6月に国軍は再びKIAを攻撃した。 パンロン会議から70年にあたる2017年2月12日には、パンロンにアウンサン将軍のパンロン合意の記念碑が完成。その完成式典に参加したスー・チー氏はその場でも政府軍との戦闘を続ける少数民族反政府武装勢力に対しNCA合意を呼びかけた。2018年7月に開かれた第3回のパンロン会議後も戦闘活動が続いた。 2020年は第4回会議がネーピードーで8月に開催、18の反政府武装勢力が招待されたが8勢力が欠席。戦闘激化で今回の総選挙が一部地域で中止されたラカイン州(旧アラカン)のアラカン・アーミィ(AA)は招待されなかった。これまで4回開催してきた「21世紀のパンロン会議」を振り返ると、会議後にたびたび国軍が武装勢力と戦闘を繰り返してきたことを見ても、国軍はスー・チー氏が目指す民族融和を妨害しているようにも見える。
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2021年1月1日掲載