タイ鉄道新時代へ

【第83回(第3部43回)】 中国「一帯一路」の野望・番外編5

タイ東北部ノーンカーイでタイ中高速鉄道に乗り入れ、ラオス北部を縦貫して中国雲南省に至る「中老鉄路」は、昆明駅で中国国内の高速鉄道網に接続され、一部は南西部ミャンマー・ムセを目指す。国境を超えるとムセ-マンダレー鉄道(計画線)と名称を変更し、ミャンマー第2の都市中部マンダレーへ。これにより、北部東南アジア地域における壮大な交通ネットワークが完成することになる。ところが、今から三四半世紀以上も前に同様にこの地域を押さえようとする動きがあった。旧日本軍が目指したビルマ支配だ。マンダレー東方の丘陵地に置かれた当時の戦闘指揮所の街が今回のテーマ。

陽もまだ明けやらぬ午前4時、中部ターミナル駅マンダレーを出発するビルマ国鉄車両がある。列車番号は132Dn。北東部の街ラシオを目指す。所要時間は15時間35分。ほぼ丸一日を要する超ローカル路線だ。列車はそのままラシオで夜明けを迎え、午前5時には131Upと列車名を替えマンダレーに向けて折り返す。途中ピンウールインで乗客を待つため1時間半余り停車。終着は22時40分と遅く、復路は17時間40分もの長時間乗車となる。当該路線は1日あたり、この1往復計2便しか運行がない。  旧名をメイミョーと呼ぶピンウールインは、マンダレーから東北東に直線で40キロ弱。鉄道で言えば、1つ目の主要停車駅だ。ところが、当地は小高い丘陵地帯にあり、鉄道も道路も南側に大きく迂回するため実際の走行距離は70キロ近くにも達する。所要時間も4~5時間もかかる。  当地の標高は1100メートル。同21メートルのマンダレーから一気に駆け上がるため、暑季でも比較的涼しく、長袖を着用する人も少なくない。イギリス統治時代に避暑地として開発され、街には至るところに英国文化を受けた街並みが今も残っている。中心部にある時計台は、1898年に街が開発された際にイギリス人篤志家の寄付によって建てられた。人物名を採ってパーセル・タワー(Purcell Tower)と呼ばれている。

太平洋戦争当時の1943年4月、日本軍がこの地に置いたのがビルマ方面軍隷下の第15軍司令部(司令官・牟田口廉也中将)である。かのインパール作戦を担当するのが目的だった。タイや中国雲南省にも通じ、インド北西部に向けアラカン山系を越えて侵攻するには、交通の要衝であるマンダレーのほうが利便性は良い。だが、気温も衛生状態も過酷な同地では何かと都合が悪い。そこで選ばれたのが避暑地として名高い当地だった。  メイミョーでは、イギリス人によって建てられた教育施設が接収され、指揮所として使用された。付近一帯についても軍司令部の直轄地域とされ、演習施設や将兵の宿舎などに充てられた。現在のミャンマー防衛大学があるエリア全域がほぼ該当すると見られている。  だが、インパール作戦の難航によって事態も変化。44年4~6月には15軍の戦闘指揮所がインド国境に近いインダンギーに移され、メイミョーは後方の一拠点となった。作戦失敗後も、敗走する将兵がマンダレーからそのまま南下することから、高台にある当地まで立ち寄ることは少なかった。ほぼ無傷な状態でメイミョーは再びイギリス軍の手に引き渡されることになった。

それから約2年が経ったころである。メイミョーを訪れた旧日本軍関係者があった。15軍司令部があったこの地を慰霊に訪れたのである。一行は高さ2メートルは優にある墓碑を建て、犠牲者の霊を弔った。墓碑の表には「陸軍墓地」、裏側には「昭和22年4月30日建立」と刻まれた。  この墓碑を誰が建てたのかは分からない。背景もよく分かっていない。現地に住む人々に聞いてみても、「以前は別の場所にあってここに移設した」という人や、近くにある深井戸を示して「この井戸水を煮炊きして日本軍は生き延びた」という人もいて定かではない。  近年、再び脚光を浴びるようになると、隣国タイなどから墓参に訪れる日本人も見られるようになった。建立者を探す取り組みなども始まった。ところが、昨年11月に「陸軍墓地」は突如として閉鎖となった。防衛大学の管轄内にあることで、立ち入りを厳とするよう軍の指示があったと近くに住む人は説明した。タイから何度も足を運んでいる人物は、アウン・サン・スー・チー国家顧問に何度も手紙を書いた。「政治目的ではない。墓参だけは認めてほしい」と。だが、返答は何も届いていない。(つづく)

2020年11月1日掲載

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