タイ鉄道新時代へ

【第24回(第2部/第6回)】1番特急列車が走る北部本線「チェンマイ線」

バンコク旧市街にある中央駅フアランポーン。毎日夕方6時ごろになると、ここを出発する長距離列車のデッキは、遠く故郷を目指す人や旅行を楽しむ人、見送り客などでごった返す。掲示板のプレートには列車番号を示す「1」の文字。バンコク発チェンマイ行きの特別急行「ナコーン・ピン号」。タイの国鉄では他にない、別名を持つ長距離寝台列車である。北部の山岳地帯をうねるように走行し、タイ最長のトンネルを通り抜けて進む10数時間の旅は全長約751km。今なお多くの旅人を魅了して止まない。連載第2部の第6回は、財源不足と難工事の末に1922年に全通した旅情たっぷりな北部本線(チェンマイ線)と終着駅チェンマイ駅を取り上げる。(文と写真・小堀晋一)

チェンマイの県庁所在地ムアンチェンマイの美名「ナコーンピン(นครพิงค์)」が、1番列車「ナコーン・ピン号」の由来だ。美都チェンマイに向かう特別な列車という意味を込めたかったのだろう。フアランポーン駅を午後6時10分に出発した長距離寝台列車はディーゼル機関車を先頭に、一等と二等、それに食堂車の編成。夕食と朝食を車中で取り、睡眠をゆっくりと楽しむことができるのが最大の魅力となっている。なるほど、アユタヤを出てロッブリーに差し掛かろうという頃には、大半の乗客はすっかり就寝モード。あちこちから寝息が聞こえ始めた。

列車は中部の田園地帯を越え、チャオプラヤー川の支流ナーン川のバーンダーラー鉄橋(約250m)を渡ると、北部プレー県デーンチャイ駅を越えたあたりから険しい山岳地帯にさしかかる。勾配斜度は最大で約25パーミルにも。とはいえ、外はまだ闇の中。バンコクから681kmの地点にある国内最長のトンネル「クンターントンネル」(約1,361m)の通過音に気付く乗客もそう多くはない。ようやく目覚めようかという翌朝6時すぎ、列車はタイ国鉄駅で最も高い位置にあるクンターン駅(標高578m)に着く。開いたドアから流れ込む朝の空気が冷たく心地良い。ここを抜ければ、あとは1時間ほどでチェンマイだ。

チェンマイには午前7時15分すぎに到着する。フアランポーン駅ほどの規模感、荘厳なイメージはないものの、どこか落ち着いたアットホームな駅舎。それがまた、多くの旅人を引きつける。北の大地の「母なる玄関口」といった感じか。駅前には朝食を提供する屋台や店舗がちらほら。ここで見つけた現地の名物料理カオソーイは、疲れた身体を癒してくれるのに十分だった。

チェンマイ線の建設は、タイの鉄道史とともに始まった。1888年、ラーマ5世の統治下。国土の開発と辺境における安全保障対策の必要性を痛感していたタイ政府は、英国の調査会社に鉄道建設にかかる調査を打診。バンコク~チェンマイ間をタイ鉄道の幹線とすることに決定した。工事は91年に始まり97年にはバンコク~アユタヤ間が開通。採算性の面からコラートまでの東北部本線が先に完成したものの、北部本線も1901年までには中部ロッブリーまで延伸した。だが、その先は財政難や難工事から建設は遅れがちとなっていた。

転機は02年に起きた北部プレー県での地方領主たちの反乱だった。この頃のタイは、バンコクに巨大なムアン(チャックリー王朝)が存在。辺境の地方領主たちは属国として年貢や兵を献上する代わりに一定の自治が許されるという統治構造となっていた。反乱は強化された中央集権体制に反発する形で起こった。ラーマ5世はこれを政権に対する敵対行為と判断、派兵を決定した。兵や軍需物資を搬送するため、建設が急がれたのが北部本線だった。当初計画では13年までにチェンマイ全通の予定だった。

それでも、完成にかかる総工事費数千万バーツが国家財政に重くのしかかり、建設は遅れに遅れた。同時に進行していた南部本線建設に必要な財政負担、さらには17年に参戦した第1次世界大戦の戦費調達も重なって遅々として進まなかった。それでも、南部本線がソンクラーまで開通した16年から6年後、北部本線もようやくチェンマイまでの乗り入れを果たしたのだった。

もう一つ、工期が長期にわたった背景に、西隣ビルマをインドに編入したイギリスの動きがあった。この時、イギリスはビルマ南東の街モーラミャイン(モールメイン)からタイ北部ターク県メーソートに入り、チェンライから中国雲南省に通じる輸送ルートの開設を目論んでいた。インドからビルマを経て中国内陸部に達する安定した輸送路が確保できれば、植民地支配に大きく資すると考えた。このため英政府はタイに対し、鉄道建設にあたっては中部ナコーンサワンからチャオプラヤー川西側の支流であるピン川沿いに北上するよう圧力をかけ、ビルマからの鉄道との接続を要求。ところが、警戒したラーマ5世がこれを拒絶、大きく東に迂回したルートでの建設を推進したため、新たな調査費の発生などから建設が大幅に遅れることになった。

対英米宣戦布告して臨んだ第2次世界大戦でも、北部本線は泰緬鉄道やクラ地峡鉄道といった軍事鉄道とともに連合軍の標的とされた。当時は日本軍による事実上の支配下。ビルマ方面に向かう泰緬鉄道とクラ地峡鉄道だけでは軍事輸送に足りないと判断した日本軍は、北部本線の転用を決断。ピサヌロークの北、ウッタラディット県バーンダーラー駅から西に支線に入り、終点サワンカロークから自動車に積み替えてメーソート超えに軍需物資を輸送する計画を立てた。これを阻止するために実施されたのが、ナーン川に架かるバーンダーラー鉄橋の爆破計画だった。

連合軍により同鉄橋が爆破された結果、北部本線は南北に大きく分断された。車両の多くも被災し、戦後しばらくまで満足な運行はできなかった。安定的な直通運行が可能となったのは戦後5年も経ってからのこと。以後は、欧米製ディーゼル機関車の導入など着実に復興への足取りを歩んできた。その北部本線も7年後には開業100年を迎える。運行する長距離列車は現在、特急、急行、快速の3列車で1日あたり計5往復。日々、多くの乗客を運ぶ主要路線の背後には長い苦悩の歴史があった。(つづく)

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