タイ鉄道新時代へ

【第32回(第2部/第14回)】遅れた東北部の鉄道建設

全長4000kmに上るタイ国鉄路線で、その最大の路線距離を誇るのが東北部(イサン)地方を走る東北部本線である。北にウドンターニー線、南にウボンラーチャターニー(ウボン)支線を擁する同本線は全線合わせて1202.5km。鉄道全体の3分の1がイサンの乾いた大地で運行されていることが分かる。だが、メコン川を臨むノーンカーイまでレールが届いたのは、バンコクを起点に工事が始まってから実に半世紀以上も後のこと。長らくこの地方では、鉄道敷設計画は持ち上がっては消えていくという存在だった。タイ鉄道連載企画は今回から、舞台をイサン地方に移し話題を展開していく。(文と写真・小堀晋一)

水に恵まれず、不毛で乾いた土地。それがイサン地方をめぐる長年の共通の理解だった。ひとたび大雨が降れば一帯は泥にまみれ、行き来もできなくなる。わずかに牛車だけが輸送手段として機能する現実は、首都バンコクから遠く離れた僻地として政治的にも経済的にも結びつきは決して強固なものとは言えなかった。交通手段は主に徒歩か牛、ところによって存在したのがわずかな水運だった。チャオプラヤー川の豊富な水の恵みやタイ湾の沿岸を伝って行き来する北部や南部の人たちとは、自ずと国家への帰属意識にも違いがあった。

鉄道の敷設が始まった19世紀末になっても状況に変わりはなかった。バンコク~コーラート(ナコーンラーチャシーマー)間で初めての鉄道建設が進められたとはいえ、あくまで例外的でチェンマイとを結ぶ北部本線とマレー半島を南下する南部本線が優先とされた。1906年に策定された鉄道建設計画にも盛り込まれている。一方、インドシナ半島東部を領有する仏印はベトナムやカンボジアからイサン地方に至る鉄道網の建設を画策、タイ側に働きかけを強めていた。

ラーマ6世の異母弟であるカムペーンペット親王が鉄道局総裁に就任した1917年は、タイが第1次世界大戦の戦勝国として欧米諸国と対等な関係を築くため、国力を付けようとしている時代だった。親王はそのためには鉄道網の拡大が欠かせないと判断。東北部本線についてはコーラートから東にウボン(311km)、北にコーンケーン(184km)に向けた新線建設を行うこととなった。それぞれ1920年と24年に着工され、30年と33年に完成した。この結果、イサン地方の多くで首都バンコクとの政治的経済的な結びつきが強化され、仏印がイサン進出を諦めるきっかけともなった。

この時、コーンケーンから先ノーンカーイ延伸についても検討されたが、財政上の問題を理由に計画は構想の段階に留め置かれた。イサン北東部でメコン川と接するナコーンパノムに向けた新線も検討がされ、当初はコーンケーンを分岐駅として開発する計画とされた。

30年に第3次鉄道建設計画が策定されると、延伸計画は一気に具体化が進んだ。コーンケーン~ノーンカーイ間は正式に延伸が決まり、ナコーンパノムに至る新線もウドンターニーの手前クムパクーワーピーで東に分岐する路線に改められた。だが、29年に米国で発生した世界恐慌が次第にタイ市場にも影響を与え始めており、計画は再び棚上げを余儀なくされた。

41年作成の全国鉄道建設計画は、停滞していたイサン地方の鉄道建設を復活させた。内容は大きく3点。メコン沿岸のルーイ、ノーンカーイ、ナコーンパノム、ムックダハーンの4都市に向け新線を建設するとしたほか、コーラート線のバイパス線としてロッブリー~ブワヤイ間の新たな敷設が盛り込まれた。北部ターク県メーソートからピサヌロークを経由し、クムパワーピー~ナコーンパノム間の新線に乗り入れる東西横断鉄道の構想も明示された。タイが国際的にも国力を増す過程で、近隣植民地を支配する英仏と渡り合うための措置でもあった。しかし、第2次世界大戦の激化でこれら計画はまたしても中断。白紙の状態に戻った。

タイ政府が三たび鉄道整備の着手に乗り出したのは大戦後のことだった。49年に実施された全国鉄道建設計画の改訂作業。この中で、5路線の整備を優先施策とし、そのうちの4路線をイサン地方が占めた。最優先のケンコイ~ブワヤイのバイパス線と、ウドンターニーから先ノーンカーイまでの延伸。それに、クムパワーピー~ナコーンパノム間、ブワヤイ~ムックダハーン間の新線建設だった。だが、この時も戦後の財源不足を理由に工事は停滞を続けた。50年代後半にサリット元帥が権力を掌握した後は、「開発」の象徴でもある高規格道路の建設が優先され、整備計画はケンコイ~ブワヤイのバイパス線を残して全てが中止となった。わずかにラオス内戦の勃発で赤化拡大の懸念を抱いた米国が400万ドルの資金を供与、突貫工事で完成したウドンターニー~ノーンカーイ間だけが例外だった。

その後もイサン地方をめぐっては新線建設計画が浮上しては消え、新たな路線計画も持ち上がった。ブワヤイ~ムックダハーン間のルートをナコーンパノムまで延伸し、代替とするのもそうした一案だった。当然にメコン川を渡河しての国際鉄道建設の構想が背後にはあった。

ただ、21世紀に入ると、タイ政府は国際鉄道の建設構想から次第に熱を失っていく。現在4つあるメコン川に架かる「タイ・ラオス友好橋」でも、鉄道の乗り入れを想定した構造となっている橋は94年完成の第1橋(ノーンカーイ~ラオス・ビエンチャン)だけ。残る3つは道路専用橋だ。将来に向けこれを鉄道併設橋に改修する計画はなく、道路を使用した長距離国際輸送が実現している。イサン地方の鉄道は、その時々の国際情勢や政府の動向に左右されながらわずかに2路線が開通した状態で、十分な経済効果もないまま日々の運行を続けている。(つづく)

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