タイ鉄道新時代へ

【第1部/第12回】長距離輸送に活路

サリット首相の「開発」の時代以降、「美観を損ねる」として冷遇され続けたタイ国鉄だったが、生き残りをかけた模索も続けていた。その最たるものが、首都バンコクと国境近くの地方拠点都市とを結ぶ長距離鉄道の登場だった。1959年には一部急行列車を毎日運行に切り変え、運賃の安価な3等車を連結した普通列車や快速の長距離夜行列車も運行を開始した。その背後には皮肉にも、「開発」によるタイ社会の変化、そして新たな需要の出現があった。連載企画「タイ 鉄道新時代へ」の今回は、長距離輸送に活路を見出そうと生き残りを模索するタイ国鉄の動きについて。(文・小堀晋一)

タイ政府による「開発」政策は、農業中心だったタイの産業構造を根底から変えていった。主要都市周辺部では工業化が進み、工業団地が次々と出現した。農村では未開拓地の開墾が一通り終わり、余剰人員を抱えていた。新たに生まれた工場では工場労働者が必要となり、供給源となった地方の農村から移動手段として鉄道に乗車する人々が生まれるようになった。一方で、従来の主要な鉄道利用者だった行商従事者は、高規格道路の整備によって活性化した自動車市場へと流れていった。このようにしてタイの旅客運行は、短中距離間を物資を携えて行き来する人たちから、長距離を移動する人たちの足へと変貌を遂げていった。

こうした需要を受け、国鉄では長距離運行と夜行運行を順次拡大していった(第9回で詳報)。61年にはバンコク~北部本線ピッサヌローク間に普通列車による夜行運行を開始。3等客車を連結したことで需要が拡大した快速列車も、63年に南部本線スンガイコーロックとの間で夜行運行を始めたほか、北部本線チェンマイを結ぶ夜行快速も出現するようになった。

貨物需要にも大きな変化があった。主力だった木材や一般荷物が自動車輸送に切り替わる一方で、1960年代から始まったベトナム戦争が新たな需要を生み出した。南部インドシナでは北ベトナム(ベトナム民主共和国)と対峙する米軍が、国内に赤化勢力を抱えるラオスでは王国政府が石油製品などの軍需物資を必要としていた。このころ、北部カムペーンペット県ラーンクラブーではシリキット油田が見つかり採油が行われていた。隣県ピッサヌローク県ブンプラ駅から積み出された原油は中部の製油所へ運ばれ精製された後、一部が南部インドシナやラオスに向けて軍需用として出荷されていった。

このほか、地方都市や辺境を結ぶインフラ整備資材としてセメントなどの工業物資もこうした地域に向けて送られていった。ベトナム戦争の始まった60年時点で36万トンと16万トンだった石油製品とセメントの貨物輸送は、20年後にはそれぞれ140万トン、160万トンと取扱量を増大させていった。貨物の平均輸送距離も60年の約60キロから80年代末には100キロを超えるまでとなった。

一方で、草創期の鉄道経営や戦後の復興を支えたコメの輸送は大きな変換期を迎えていた。高規格道路の出現・整備で自動車にその座を奪われたのはコメの鉄道輸送も同じだったが、搬送距離の長い南部に限っては優位性を維持していた。バンコクからマレーシア国境の街ナラーティワート県スンガイコーロックまでは1100キロ以上もあった。その先マレーシアの首都クアラルンプールまではさらに500キロ、シンガポールまでは総延長2000キロ以上もあった。とても自動車輸送で賄える距離ではなかった。このため、モータリゼーション化が進んだ70年代以降にあっても南部地域には鉄道によるコメなど農産品の輸送が続けられ、拡大していた。

南部地域の人口の増加及び発展がこれを側面から支えた(別表「タイの地域別人口推移と自然増加率」参照)。それは70年代以降、特に顕著となり、70年代初頭から80年代末にかけての人口の増加率はバンコクを擁する中部に次ぐ66.5%の高い伸びを記録した。自然増加率(出生率から死亡率を差し引いた値)も70年代、80年代ともに全国トップで、80年代では唯一20%を上回った。天然ゴムや錫生産といった独自の産業も南部経済を活性化させ、鉄道需要を喚起した。長距離輸送に活路を見出そうとするタイ国鉄と地域のニーズが南部では見事にマッチした。

だが、90年代ともなると、タイの鉄道はまたしても新たな試練に晒されることになる。90年代初めに8500万人いた年間の旅客利用者数は、2005年にもなると拡大するモータリゼーションの波によって5000万人台までに低減。以後も漸減傾向が続いていており、回復の目処は立っていない。貨物輸送も2000年代半ばまでにコメを含む農産品の鉄道輸送はほぼ消滅する結果となった。これらの背景にあったのが、さらなる自動車の普及と新しい輸送手段の登場だった。

タイ国内の国道や県道など主要道路の舗装率は90年代初頭までに90%近くにまで達していた。これに加えて、幹線道路では4車線化が精力的に進められていた。2010年時点での4車線化道路は全長1万キロを越え、現在もなお建設が続けられている。こうした道路インフラの更なる整備の結果、自動車の登録台数は90年の約260万台から四半世紀後の2005年時点で1000万台に届くところまでに拡大した。

一方、2000年代になると、利便性が高く快適な長距離VIPバスという新しい交通手段が登場した。さらに2010年代ともなると、格安航空会社(LCC)という新たな空の輸送網が誕生した。日時にさえこだわなければ、片道数百バーツでタイ全土を行き来することが可能となった。貨物輸送も、大型トラックによる冷凍冷蔵輸送やチルド輸送が可能となり、物流は大きく変貌を遂げた。老朽化した設備でサービスに遅れを取る鉄道が敬遠されるケースは少なくなかった。

それでもタイ国鉄は、新たな活路を見出そうと尽力した。その大きな一つが物流の国際化に伴い拡大を続けるコンテナ輸送だった。タイ湾に面する東部チョンブリー県シーラーチャーに国際港湾施設レムチャバン港が開港したのは91年。海運の拠点港と東部本線を結ぶ鉄道支線シーラーチャー分岐駅~レムチャバン港駅間の10.25kmが翌年に開通すると、貨物輸送の主力はコンテナに移っていった。現在、この区間には1日あたり10数往復のコンテナ貨物列車が運行をしている。

96年に陸上コンテナ輸送の拠点としてバンコク都ラートクラバン区にラートクラバン内陸コンテナ・デポ(Lat Krabang ICD)が開設されると、コンテナ輸送の重要性は一気に高まった。レムチャバン港から揚げられた荷は110キロあまり離れたラートクラバン内陸コンテナ・デポ駅に運ばれた後に当地で通関手続きが取られ、牽引トラックに積み替えられ各地に輸送さえていった。一部は再び貨車に積まれ、東部本線から南部本線、さらにはマレー鉄道に乗り入れ、クアラルンプール近郊の港湾都市に運ばれることも。ここでもタイに特徴的な長距離輸送が追い風となった。

鉄道を使ったコンテナ輸送は現在、タイの全貨物輸送の過半超から3分の2前後を占める重要な収入源となっている。ただ、かつて主力だった石油製品輸送はその後のパイプラインの建設等で絶対量が減ったほか、セメントなどの建設資材も地方都市への分散が進んで自動車輸送に移行したように、現在堅調なコンテナ輸送が今後どう変化していくかは一切不明だ。自動車に翻弄されながらも生き残りを模索し続けて来たタイの鉄道。次回は遅々として進まなかった新線建設がテーマ。(つづく)

  • Facebook
  • twitter
  • line

関連記事