タイ鉄道新時代へ

【第63回(第3部23回)】タイからビルマへ。鉄道等輸送をめぐる旅その5

最大時16万人の建設作業員を動員し、この種の工事としては異例の短さとなる14カ月の工期で完成を見たタイ西部の泰緬鉄道。ところが、全通後間もなく戦況は悪化。廃線に向けた最後の1年間は、もっぱら敗残日本兵を同盟国タイ国内に送り届ける役割を担った。その数、少なくとも4万人以上とされる。戦後は連合国側に接収され分割。ビルマ(ミャンマー)区間はビルマ政府に、タイ区間はタイ政府にそれぞれ引き渡され、後者のナムトックまでの区間だけが1958年に観光列車として復活を遂げた。だが、その先の山間部ではダム開発によって一部軌道が人造湖に沈み、二度と往事の姿を取り戻すことはなかった。それらの場所は今どうあるのか。泰緬鉄道の「今」をお届けする。

(文と写真・小堀晋一)

チャオプラヤー川西部の始発駅トンブリ駅を出発したローカル列車は、田園地帯をゆっくりと縫うように走ると、約4時間半をかけて終着駅ナムトック駅のホームに滑り込む。ここまで約194キロ。途中、この地方最大の地方都市カンチャナブリーを経て、「戦場にかける橋」で有名なクウェー川陸橋を渡河。断崖絶壁に作られたアルヒル鉄橋(約450メートル)を時速10キロほどでのろのろと走行するなど、観光客にはよく知られたルートとなっている。

だが、その先の路線が現在どうなっているかについては、関心はさほど高いとは言えない。それも無理なからぬことだ。終着駅ナムトック周辺はクウェー川沿いのリバー・リゾートとして名を売っているとはいえ、駅前にはわずかに粗末な掘っ立て小屋の飲食店が散見されるだけ。有名な観光地にあるようなお洒落な土産物店などは存在しない。タクシーなどといった便利なものもなく、運が良ければトゥクトゥクが捕まる程度。ついていないときは、野犬が居座る中を宿まで歩いていかねばならない。

トンブリを発ちノーンプラドゥックから分岐したレールも、この駅の200メートルほど先で草むらの中に姿を消してゆく。定期的な整備も施されていないため、荒れ放題の地表が長い年月をかけて軌道を飲み込んでしまっているのである。もし、再開を目指すのなら、相当の労力と費用をかけて修繕をしなければなるまい。地元の人々の中には戦後、現金目当てに路線を引き剥がし、売ってしまった者もいるだろう。果たして、どれだけの軌道が残っているのかさえ、全く予想もつかない現実が、泰緬鉄道の今を物語っている。

泰緬鉄道の軌道が再びはっきりと顔を現すのが、ナムトックから上流に20キロほどの「ヘルファイヤー・パス」だ。周囲一帯は史跡公園と博物館となっており、国道323号沿いの駐車場に車を停め、かなりの高斜度の谷を一歩一歩確かめながら降りてゆく。周辺は一面のジャングル。すっかりと息が上がり、身体が汗でぬかるんだころ、それは目の前に広がった。

巨大な岩盤を垂直に切り抜いたその合間を列車が運行していたのだろう。地表には狭軌1メートルのレールがわずかに残る。これが標準軌(1435ミリ)だったら、車体は岩肌に傷つき運行そのものができなかったはずだ。現地の説明によると、ここを旧日本兵らはツルハシと発破で掘り進んだ。何という血のにじむ作業だったことか。傍らでは、イギリスから来たという老人グループが献花をしていた。こちらが日本人だと分かると口から泡を飛ばして何やら話しかけてきたが、戦後70年以上が経っても深い傷跡を負っているのだと痛感した。

国道をそのままミャンマー方面に向けて進むと、今度はタイの巨大な水瓶の一つワチラロンコンダムに到着する。戦後、産業用水の確保のために作られたダムだが、戦時中は無数の沢があるだけで湖そのものは存在しなかった。建設により泰緬鉄道の軌道の一部が湖底に沈んだ。湖の管理事務所に現在のその位置を尋ねたが、「何年前のことだと思っているんだ。分からないよ」。つれない返事が返ってくるだけだった。

さらにミャンマー国境を目指す。スリー・パゴダ・パスだ。三つの仏塔(パゴダ)があることからこの名があるという。日本語で「三塔峠」と呼ぶ。泰緬鉄道はここからビルマ領内に越境していた。かつては、ビルマ王朝やタイのアユタヤ王朝の兵士らが攻略のため、相互にこの地を通過した。近年ではミャンマー政府と対立する少数民族の前線基地が置かれたこともある。現在は整備が進み、観光地としての地位を得ようと、イミグレーション機能も持つようになった。

訪ねた時は、ちょうどタイ側に出稼ぎに出ているミャンマー人たちが帰宅する時間帯だった。大型の乗り合いバスが次々とタイ側国境に横付けし、腰にロンジーを巻いた労働者たちが車を降りて自宅へと徒歩で向かっていく。聞けば、近くの縫製工場で働いているのだとか。だれもパスポートやIDカードを提示する者はいない。イミグレーションの職員も笑顔で送り出していく。

試しに、記者(筆者)が越境できないか、職員にかけあった。しかし、「ダメダメ。ここはミャンマー人とタイ人だけだ」と素っ気ない。ならば「明日ならいいのか」と粘ってみても、返事は変わらなかった。タイ・ミャンマー国境には似たようなエリアがいくつかある。島国出身の者には分からない国境コミュニティーという世界がここにはあった。(つづく)

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