タイ鉄道新時代へ

【第86回(第4部2回)】 悲願の新線コーンケーン~ナコーンパノム線その2

タイ政府が昨年閣議決定した新線のコーンケーン~ナコーンパノム線は、鉄道未敷設地における本格的な新規路線建設としては1963年のノーンプラドック~スパンブリー線(約77キロ)以来約60年ぶりとなる。バンコクから全長約763キロ。分岐する東北部本線バーンパイからでも355キロ。ちょうど東海道新幹線の東京~名古屋間(約366キロ)に相当する。これだけの長駆区間が半世紀以上もの間、鉄道空白地域として存在し、沿線住民約600万人の悲願とされてきたのも驚きだ。土地収用手続きは早ければ年内にも始まる見通しで、着工も来年にはスタートするものと見られる。いよいよ始まった奥イサーンの鉄道建設。企画内小連載はまずはその前史を概観する。
(文と写真・小堀晋一)

奥イサーンの鉄道敷設計画が初めて公式に持ち上がったのは今から100年ほど前、ラーマ7世の治世下だ。時の鉄道局総裁カムペーンペット親王が1926年にバンコクで開かれたロータリークラブ懇親会の席上で示した「国際鉄道網構想」が原型と言える。この中で、建設中だった東北部本線の当時の終着駅コーンケーン(34年開業)から北東方面にレールを延伸させ、ガーラシン、サコンナコーンを経由。メコン川沿岸のナコーンパノムに至る新線構想が描かれている。欧米列強による植民地支配が強固となる中、それに対抗してタイが東南アジアの中心地として国際鉄道網を整備していくとの強い意志の表れだった。  当該路線が選ばれたのは、インドシナ半島東部を支配していたフランスが、ナコーンパノム対岸のラオス・ターケークから仏領ベトナム・タンアップまで鉄道建設を計画していたためだ。当時は第1次世界大戦から約10年が経過。国際協調路線が進む中、戦勝国であったタイの国内でも通商を盛んとし、国際交易を重視する必要が叫ばれていた。メコン川を渡河し、ラオス、ベトナムを経由すれば、中国とも鉄路を通じた貿易を行うことができる。新線はタイの経済発展に欠かせない国土開発と位置づけられた。  ところが、計画は間もなく世界経済を大混乱に陥れた世界恐慌(29年)と、その後に続いた立憲革命(32年)によって頓挫させられる。ベトナムやラオスではすでに着工がされ、ナコーンパノム周辺でも測量が始まっていたが、そのいずれもがほどなく中止となった。カムペーンペット親王の鉄道網構想は立憲革命後に新政府が立てた道路整備計画によって、その多くが道路建設に代替されることとなった。  再び奥イサーンの鉄道敷設計画が持ち上がったのは、戦争の色彩が濃くなった1941年のことであった。中国では日中戦争が開戦4年目を迎え、戦火は南下し、中国大陸全土に広がっていた。太平洋では原油をめぐる日米間の駆け引きが緊張を増し、日本軍が南下を開始していた。ヨーロッパではドイツがフランスを占領し、インドシナ半島の支配図にも変化が現れていた。  タイ政府の「全国鉄道建設計画」はこうした国際情勢を受け策定されたもので、国土を縦横に鉄道網を張り巡らせているのが特徴だ。東北部(イサーン地方)では2つの新線が計画され、そのうちの一つ東北部本線クムパワーピーからナコーンパノムに至る新線は、西に延伸してルーイ、ピッサヌロークを経てビルマとの国境メーソートに至る。東ではインドシナに進出した日本軍と、西ではビルマを支配する英軍とそれぞれ対峙するためとされた。  もう一つの東北部本線ブワヤイからムクダハーンに至る新線は、東部メコン川国境で日本軍を牽制し、西で北部本線のロッブリーに乗り入れるのが目的とされた。ムクダハーン対岸のサワンナケートはラオス第3の都市で戦略上の拠点でもあった。  間もなく太平洋戦争が開戦すると、タイ政府の「全国鉄道建設計画」は当地に進出した日本軍の「大東亜縦貫鉄道構想」に吸収される。このうち日本側が採用したのはナコーンパノム~クムパワーピーのルートで、東北部本線でバンコクに乗り入れ南部本線からマレー鉄道を経由。シンガポールを目指すのが目的だった。だが、戦況の悪化やビルマ戦線に向けた泰緬鉄道やクラ地峡鉄道の開通が優先され、実現することはなかった。  戦後、タイ政府は荒廃した国土の復興を進めるため全国鉄道建設計画の改訂を実施。前出の東北部2路線に加え、ゲンコーイ~ブワヤイのバイパス線、ウドーンターニー~ノーンカーイなどの新路線を閣議決定する。しかし、財政難から間もなく再改訂を余儀なくされ、同2路線は後順位に。58年には全ての新規画が凍結される結末となった。以来、60有余年。モータリゼーションの浸透もあって、奥イサーンに鉄道が敷設されることはとうとうなかった。(つづく)

 

2021年2月1日掲載

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