タイと私の50年

『Uマシーン』の乾社長がバンコクで私の常宿だったホテルのロビーに来て『Uマシーン』を創刊する計画を聞かされたのは17年も前のことになった。その場で「では10回ほど」と同誌の1面連載を引き受けたが、今回でなんと200回。記事の最後にある私のメールのアドレスを見た読者から時々メールを頂く。『Uマシーン』で取材した人からもあるが、だいたいが見知らぬ読者からで、記事の感想や記事中に書いた会社の紹介願いの他に私が何者なのかを聞いて下さることも多い。  そこで遅まきながら200回を機に初の自己紹介。私は1947年小豆島生まれ。23年間に渡り日刊工業新聞記者(最後の1年間は総合デスク)をしてから40代の末、1995年2月1日に同社を退職して今日までの27年以上はフリーライターだが、古巣の日刊工業新聞では現在でも月1回ほど「グローバルの眼」というコラムを担当している。  私はこれまで正式にタイに住んだことはないが、この30年間は毎月タイに通っている。上智大学時代は学園紛争時代で大学はロックアウトしていたので神奈川県の米軍座間キャンプ内の休暇兵(R&R)センターという場所でベトナム戦争の戦場から来るタイ兵の観光ガイドをしていた。だから私のタイ体験は50年。以下にいくつかエピソードを紹介したい。  タイから近隣国やインド、中国、台湾などに頻繁に往復し、ミャンマー、ラオス、カンボジア、マレーシアへの陸路も含め1000回近くタイに出入りしている。しかしコロナウイルス問題で「30年間毎月タイに来る」記録は壊れた。一度タイから出国すればタイに戻れないからだ。  新聞記者時代に東南アジア担当にされたのは先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議で円高誘導を決めた1985年の「プラザ合意」の年だった。円高が急速に進み、日本の製造業は生産コスト低減を求めてタイに集中豪雨的とも表現される勢いでの投資を始めた。

日系企業のタイ投資が急増

1985年の「プラザ合意」を機にタイ政府の外資受け入れ窓口の投資委員会(BOI)には年に数百件もの日本企業が円高回避で投資申請するようになった。タイ政府は日本などからの外資誘致を図るため深海港や道路や工業団地などのインフラ整備を全力で進め始めた。87年にはタイ初の深海港としてレムチャバン国際港の建設を始め91年に開港した。  タイに駐在記者として住んだことは無いが、新聞社の記者としてアジア担当になったことから85年から日本企業の投資が急に増え始めたタイには頻繁に来るようになった。当時、特に親しくしていただいたBOI長官はチラ長官と続くサタポン長官の2人。とりわけサタポン長官の時代、私は長官室にノーアポで訪問できる唯一の記者だったと自負している。当時、他紙の記者はBOIをまったく取材していなかったし、記者として勤めていた日刊工業新聞社の事業局(当時)が1987年に「日刊工業新聞タイ投資視察団」を組織、すでにタイには割と詳しかった私は同局長から編集局長経由でこの視察団のコーディネーターを依頼され取材もかねて同行した。  「タイ投資視察ミッション」はその後も何度か企画され私はそのお手伝いをしたことでもBOIに気に入られていた。前記の2人のBOI長官は「世界の新聞社で初めてタイ投資ミッションを組織して多くの投資も決めてくれた」と日刊工業新聞社に感謝していた。記者としてはいささか不良の私はドンムアン空港でミッションメンバーを日本に送り返した翌日からのBOIによる私1人の招待であちこち取材させてくれた。  87年頃のことだが、バンコクで取材中だった私にチラ長官の秘書から連絡が入り、「記事にしてもらいたいことがあるので長官室に早めに来て欲しい」と呼ばれたことがあった。「何事だろう」と考えながら長官室に駆け付けた私に対してチラ長官から「日本企業のタイ投資は大歓迎だが、できれば投資企業はタイで製造する製品にタイ語でブランド名をつけて欲しい。この私の希望を記事にしてくれないか」というアピ―ルがあり私は言われたままに記事にした。  タイでの日本製品の氾濫に対しバンコクを訪問した田中角栄首相に生卵が投げつけられたなどの74年の反日暴動からすでに10年以上が過ぎていたにも関わらず再び反日の動きが起きないようにとチラ長官は心配していた。  しかしそれは杞憂だった。その後のタイではアニメや日本食を中心に大変な日本ブームとなり、日本とまったく関係がないタイ企業が自社製品のブランドに競って日本語を使い始めるほどになった。食品だけでなくバンコクではビルの名まで「渋谷」といった日本語がめだち、「かわいい」「おいしい」「きれい」「すごい」などはすでにタイ語として普通に使われている。日本人とは関係がない家庭でも子供に「殿」「将軍」など日本語でチューレン(ニックネーム)をつける親もいる。

タイで活躍する日本人たち

1988年2月に日刊工業新聞の国際面に書いた3回の「ラッシュが続く日本からのタイ投資」というシリーズもBOIが私一人だけを招待してくれた取材に基づいて書いたものだ。  BOIがアレンジしてくれた当時の私のタイ取材にはいつもボンゴットさんというBOIの才女が案内人兼通訳として同行してくれた。彼女は2019年9月末に副長官としてBOIを去ったが、バンコク日本人商工会議所では長年に渡って日本企業の世話に明け暮れたボンゴットさんの慰労送別会を開いている。  80年代末、ボンゴットさんの案内で出かけた日系企業の1社がアユタヤのミネベアの工場で、当時同社の総務部長だった池田実さんが工場を案内してくれた。池田さんはコスト高になったシンガポールからタイに進出することを決めたミネベアのワンマン経営者である当時の高橋高見社長(故人)が1980年に一人で初のタイ視察に来た時、池田さんは大林組のタイ法人の社員だったが高橋社長を案内したことを契機にスカウトされミネベアのタイの第1号社員として入社、タイのミネベアを育てた人だった。  初めてお会いした頃の池田さんは、高橋社長と直接の国際電話だけでロップリに新工場を建てることを決めたばかりの時で忙しくされている中で私の取材に応じてくれた。当時のミネベアはすでに7,500人の従業員を抱える大工場になっていた。取材後にアユタヤ工場の近くの村役場などにも案内してくれた池田さんのアユタヤでの顔役ぶりを見て感動した。  池田さんは高橋社長の急死に伴いミネベアを退職してからは、タイ企業の役員をされたりしていたが、その後アユタヤで自動車向けを中心とした成形部品工場を起業して最近までの25年間経営されていた。87歳になった池田さんだが、このほどバンコクの筆者のアパートまで自ら運転する車で迎えにきてアユタヤで整理中のこの工場に久しぶりに案内して下さった。池田さんはアユタヤでの自動車部品製造は止めるものの新たに自動車関連以外での新事業を起業中で忙しくしていることを聞かされてその元気さに驚かされた。  『Uマシーン』での200回の連載で他の多くの楽しい思い出もできた。1面から計3ページの連載だけでなく、中のページで「松田健の業界シリーズ」という題のコラムも担当して主に同誌のスポンサー企業を紹介する記事を時々書いているが、その執筆のため金属接合法でプレス機などの修理をしているSMLテクノロジータイランドの坂口亨介社長を取材した時、坂口氏は私が生まれた瀬戸内海の小豆島の出身者だと知り狂喜した。40年間を超える記者生活で生まれ故郷の小豆島出身者は坂口氏が初めて。  かつて私も乗船した小豆島と高松を結んでいた連絡船が中古船としてタイに運ばれ現在はスラーターニーとサムイ島とを結ぶフェリーとして活躍しているが坂口氏はその船の修理もしていた。修理のため現地に出向いた坂口氏の前に現れた船は船体に描かれている文字から、かつて頻繁に乗ったなつかしい船だと一目でわかったという。

高まる中国の存在感

タイにおける外国企業の存在感はこれまで圧倒的に日本だったが、近い将来に日本の存在感は中国に入れ替わる様相を深めている。BOIへの外資投資申請は数十年に渡って日本が1位を続けてきたが2019年に中国が初めて日本を上回る1位に躍り出た。  中国によるタイ政府国策プロジェクトである高速鉄道建設関連の投資を差し引いても中国が日本の倍以上の投資申請額になった。中国が日本に代わるタイ投資の主役としてますます台頭することは間違いない。中国は江沢民時代から走出去(ゾウチュチィ)と呼ぶ中国企業の海外進出を推奨しているが、コロナ問題が去り次第、米中経済戦争を背景に中国企業のタイ投資が急増する。  タイ政府はデジタル産業の育成に力を注いでいるが中国のIT大手で5G(第5世代移動通信システム)でも最先端を走るファーウェイ(華為技術)がタイでのデジタル人材の育成を進める「ファーウェイ・アカデミー」を設立したがこれもBOIの奨励事業。「ファーウェイ・アカデミー」はファーウェイにタイの科学技術省傘下の科学技術開発機関(NSTDA)と国家革新機関(NIA)が協力してタイのIT人材育成を進める。EEC域内でスマート・デジタル・ハブを建設中の中国のアリババグループでもジャック・マー氏の2018年のタイ訪問時にはタイ首相らにIT人材の育成への協力を約束している。タイでの人材育成事業も日本はすっかり中国にお株を奪われている。  工業団地開発運営で大手のアマタ・コーポレーションのウィクロム・クロマディット(Vikrom Kromadit)CEOは時折私を2人だけの昼食に招いてくれる。「アマタ」の工業団地が1つだけの時代に日本に入居企業を探しに来られた頃から親しくしてもらっており、私のことを「30年のつきあいのケンは家族」とまで言ってくれる。多数の著書や世界の時事問題で解説番組も持つウィクロム氏だが「中国が世界の超大国に平和的になる動きはもはや誰も止めることは出来ない」などと断言、習近平国家主席自らが先頭に進める「一帯一路」もウィクロム氏は強く支持している。ベトナム最北部のクアンニン省ハロン市で「アマタシティ・ハロン」に着工、ミャンマーでは「ヤンゴン・アマタ・スマート&エコ・シティ」、ラオスでも中国国境に近い中国による新高速鉄道そばに新たな工業団地を造る。  かつては「日本企業の匂いがする場所にしか工業団地は造らない」と筆者に説明し続けたウィクロム氏だが、最近は同氏が発表する工業団地構想のすべてに中国の匂いがする。ウィクロム氏は「私とアマタはASEAN各地で中国と日本の架け橋になりたい」と願っている。

200回連載中の最大の驚き

幸か不幸か200回連載を通じて読者からのクレームは皆無だが、編集者のところには工業誌なのにアジア旅行記が多すぎるという苦情?はあったようだが、同号で他の読者からは工場のカタログで埋まっている『Uマシーン』でアジア旅行記は楽しく勉強になるとのお褒めのメールをいただいた。  しかし2009年11月号(71号)は忘れがたい号になった。「元気が良いインドのモノづくり」という題でニューデリーの西にあるビシュヌ・ガーデンという無数の零細工場が集積している興味あふれる街への私の訪問記だった。工場スペースが10~100平方メートルしかない板金、溶接、メッキ、鋳物、金型、木型などを製造するミニ工場が舗装もされていない道路の両側にひしめき合う街だった。カメラをぶら下げて歩く異邦人の筆者に興味が持たれ、あちこちの工場が内部も撮影しなさいと招きいれてくれ取材もできた。ほとんどが頭にターバンを巻きやる気に満ちたシク教徒の経営者だった。  この町に連れて行ってくれたのも日本市場向けに介護ベッドを生産しているシクのシン氏だった。『Uマシーン』のこの号の表紙には同氏の工場内での写真も掲載されているので、喜んでくれるだろうと考えて発行された号をお礼の意味も込めて5冊ほどを高いEMSでインドに送った。礼状が来るだろうと考えていたところになんと同氏からEメールによる前代未聞の請求書が届いた。記事への登場料をよこせというのだ。非常識にも『Uマシーン』でもらっている原稿料の数十倍の値段が記され、ご丁寧に「YOUは友人だから特別安くしておくからすぐ払って欲しい」と書いてある。  ニューデリーのめちゃくちゃ高いホテル代を払いたくなくインドの生活を見たい気持ちもありホテル代とほぼ同額を彼の親の家の部屋を借りる代金として払ってきた私はこの請求書を見て怒らずに思わず笑ってしまった。そして「貴殿の請求額は払わないが、特別に今回の記事で得た全原稿料を『Uマシーン』の社長の前で支払いたい。送金手数料が高いから明日にもバンコクに取りにきなさい」と返事したらその後の連絡は途絶えて今日に至っている。  一生に渡り髪の毛を切らずに巻いてターバンの下に隠すなど、シク教徒の頑なな生き方に私は興味があり、男性の名は全員がシン。ニューデリーで鉄道の切符を苦労して買って、シクの総本山ゴールデンテンプルがあるパンジャブ州の州都でパキスタン国境に隣り合うアムリトサルに数日泊の旅をしたこともある。  シクについて学ぼうと考えた私はゴールデンテンプルのすぐ外にある本屋で何冊かの英語の本を選んで支払おうとしたところ、店番のシクが「これらの本はすべてシクのプロパガンダだから読んでもらえるだけでうれしい。無料」と言ってお金を受け取ろうとしなかった。  このゴールデンテンプルは1984年に当時のインディラ・ガンジー首相が軍隊を投入して弾圧、多数の死者が出た歴史もあり、同首相は後にシク教徒により暗殺されている。  シクに関心を持つ私はバンコクの中華街(ヤワラート)のすぐ先、パフラットにある大きなゴールデンテンプルにも何度か出かけた。ここでも異教徒が礼拝所まではいることができる。  シク教はヒンドゥー教とイスラム教の良いところをミックスした宗教とされ、ヒンドゥー教では禁止している異教徒との食事も気にしない。パフラットのゴールデンテンプルの2階にきれいで清潔な大食堂があり、早朝に行けば異教徒にも無料でカレー料理が振舞われている。ここに礼拝に来るシク教徒にはスクムビット通りで目立つような下品な人はいない。他の国の人でも日本人でもいろいろな人がいるものだ。  「コロナ」が早く終息し再びタイを中心にアジアの旅を続けたいと考えている。

2020年8月1日掲載

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