タイ鉄道新時代へ
【第37回(第2部/第19回)】バンコクからマレー半島の商都ペナンを目指した(その3)
マレー鉄道に乗り入れたタイ国鉄が、最後に到着するのがマレーシア・ペナン州にある終着駅バタワース。その対岸のマラッカ海峡に浮かぶ面積300㎢にも満たない小島が州都を置くペナン島だ。瀬戸内海最大の淡路島の半分ほどしかない豆粒のような島は、全体的に山がちで平地はわずかしかない。にもかかわらず州人口約150万人の半分近くが住むというのだから、ちょっとした驚きでもある。どのような歴史を持つ島なのか。タイ国鉄との関連は。ペナンを目指す旅はいよいよ最終回――。(文・小堀晋一)
マレー鉄道バタワース駅に到着した記者はペナン島を目指してフェリー乗り場に向かった。操車場をまたぐ高架橋の先を歩くとフェリーターミナルの看板が。すでに多くの人が出発待ちをしていた。日中は15分毎にバタワースと島北東部ジョージタウンの間を運航している。ゲートで一人1.2リンギット(約30円)を支払い、列に並んだ(マレーシア政府は島の過度な人口集中を避けるため島からバタワースに向かうフェリーの運賃を無料とする政策を実施している)。
ほどなく船体が桟橋に到着、乗船が始まった。カーフェリーと呼ぶだけあって、まずは車、二輪から。次いで徒歩による乗客となったが、乗船階はみな同じ。停車する車の間に人が乗り込むという奇妙な乗船スタイルには、若干の戸惑いを覚えた。
上空は雲が多いものの、それでも青空が広がっている。カモメだろうか。無数の鳥の姿も見える。海面の透明度はお世辞にも高いとは言えない。江ノ島、湘南と言ったところか。乗船から20分ほどして対岸のフェリー埠頭に到着。呆気に取られるほど簡単な船旅だった。
市街地の散策取材は翌日早朝から行った。ムスリム、ヒンデゥー、華人と多彩な人種が混在する街。イスラム教のモスクやヒンドゥー寺院、仏教施設が狭いエリアに混在している。この日はちょうど、神に動物をささげ家族の無事を祝うムスリムの「イード・アル・アドハー」の日。「犠牲祭」とも訳されるラマダン(断食月)明けその年最後のイード(祝祭)は、ヤギや羊、牛などの動物を生きたまま神に捧げる儀式で知られている。
1801年に建立されたカピタン・クリン・モスクはインド系のイスラム寺院。すでにトラックで子ヤギや子羊が50頭ほど敷地内に運ばれていた。ようやく角が生えそろったばかりの1~2歳。運命を知らぬ長閑な甘い鳴き声には哀れさを感じずにはいられなかった。
神への祈りが終わるとモスクに併設された屠殺場では、立派な髭を蓄えた身体の大きな男たちが次々と子ヤギたちを解体していった。喉元を刃物がえぐり皮が剥がされる度に響き渡る生け贄の悲鳴。3時間あまりで50頭は肉の塊へと姿を変えていった。
肉は三等分され、家族、親族や友人、貧困者など恵まれない人々向けに等しく分け与えられるのがしきたりだ。家族が健康で無事にご馳走にありつけたことで神への祈りを深くする。貧困者向けには慈善団体に寄付する方法もある。転売は固く禁じられている。
旧宗主国イギリスを強く印象付けるのが、それから徒歩で北に10分ほどにあるセント・ジョージ教会だ。1818年建設のマレーシア最古の国教会建造物。天に突き刺さるような白亜の塔が特徴とされる。付近には博物館なども点在。18世紀後半にフランシス・ライトが上陸し設置したコーンウォリス要塞もさらに北5分の海岸沿いにある。
ペナン島の歴史は、ヨーロッパ列強による植民地支配のそれとほぼ重なる。インド進出を果たした大英帝国が1786年、マレー半島北部にあったクダ王国からペナン島を租借。「プリンス・オブ・ウェールズ島」と改名したことに始まった。比較的平坦な北東部一帯の地区についても国王ジョージ3世にちなんでジョージ・タウンと命名。インド~中国交易の中継地としての地位を確立していった。
1819年にシンガポールが開港されてからは、マラッカ海峡の貿易基地としての地位を争うことになる。その存在感は69年のスエズ運河の完成によっても一気に高まっていった。交易に際しては関税を撤廃。移民の奨励政策を実施した。これにより多くのインド系、イスラム系、中華系の人々が海を渡ってこの小さな島に移り住むようになった。
隣国タイとの関係も古くから存在した。米の世界有数の産地であるタイ。島で暮らす商人たちの重要な食糧源、供給源としてマレー半島を陸路横断するルート(ソンクラー~クダ間)が開拓された。だが、当時は牛車による運搬が限界であり、海路で結ばれていたシンガポールの優位は動かなかった。こうした時に地元財界から切望されたのが、半島を東西に南北に横断縦貫する国際鉄道だった。
半島初の横断鉄道が開通したのは1914年。第1次世界大戦勃発の年だった。これによりタイ産の米や豚肉、錫、天然ゴムなどが主にバンコク以南からアンダマン海側に直接搬送され、ペナンに運ばれていった。18年にバンコクとマレー鉄道直通の西回り縦貫鉄道が開通すると一気にその流れは高まった。タイからはペナンのその先に向けた輸出製品ともなって交易が拡大、タイ国内へは工業製品などが輸入されるようになった。
タイ国鉄とマレー鉄道とを結ぶ国際鉄道の完成は、それまでシンガポールの後背地に過ぎなかったタイの存在をペナン島の後背地として押し上げる新たな国際秩序を形成していった。そして、それはタイにおいてもペナン島を輸出窓口とした新たな交易システムの誕生となって、タイ経済の発展に大いに資する結果となるのであった。