泰日工業大学 ものづくりの教育現場から

第55回『タイ政治の今後とタイ的民主主義』

タイでものづくり教育を進める泰日工業大学(TNI)の例をもとに、中核産業人材の採用・育成について検討します。今回は、これまでのものづくり教育や通常のものづくり、人材育成から離れ、標記のテーマを2つの理由から取り上げます。
1つは、タイのものづくりの土壌を理解する必要があるということです。例えば、規律やチームワークなどは、日本の教育環境とは違い、かなり意識して指導する必要があり、課題解決型学習(PBL)などで指導しています。特に泰日工業大学では社会人基礎力や管理基礎力からなる組織力を指導の力点としていますが、この違いを自然環境や社会環境、さらに歴史環境からとらえる必要があり、このタイ的民主主義の成り立ちなどを理解する意味があります。またもう1つは、タイ社会理解と人材育成をテーマに年2回行っているJセミナー(日系企業勉強会)の中で、バンディットTNI学長が行ったタイ政治や社会解説は、日本人には理解が難しい内容を分かりやすく説明していて大変好評で、読者の皆さんにも知っていただく価値があると考えます。
本稿は、2016年8月にタイ新憲法が国民投票で可決され、その国民への影響、民政復帰と持続的民主主義への展望、総選挙後の政権争いなどについて、2016年11月のJセミナーで同学長が解説したものを要約したものです。なおパワーポイントで配った各項目テーマの本文の後に➡マーク後の文章がありますが、その時解説されたものです。

タイ政治の今後とタイ的民主主義 バンディット・ローッアラヤノン 泰日工業大学 学長

1.タイの過去25年の政治事情

  • 1991年軍部がクーデターを起こして政治権力を握る
  • 1992年の政治騒動で被害者が出たため、もっと国民のための憲法を制定すべきと世論の声
  • 1997年、通貨危機が起きた年、新憲法が成立
  • 1997年の憲法は歴史上一番国民主権的であり、衆・参議院とも総選挙で決める内容であった
  • 2001-2006年にタクシン氏率いる政権の利益相反行為などで、反対派が2006年4月からデモを起こし、政権支持派と衝突する直前の2006年9月にクーデターが起きた

➡8月新憲法が国民投票で認められる一方、国王が亡くなられた。プレーム枢密院議長(元首相、元陸軍司令官)が摂政を務められている(2016年11月時)。プレームさんは1920年南部のソンクラー生まれ。陸軍司令官出身で、1980-1988年に首相を務めた。民主党連立政権で8年の功績が評価されている。88-91年チャーチャイ首相(元陸軍少将、チャートタイ党首)はビュッフェ・キャビネットと言われ、汚職が全面に。⇒スチンダー・クーデター(スントーン大将を表に立てる):彼は首相にならないと言いながら、92年に首相になった。その後チャムロン・シームアン元バンコク都知事の民主化闘争で対立、国王が裁定された。1992年、国民から広く意見を求め、国民にとって良いものにして、97年通貨危機の後に制定。2002年タクシン首相はIMFに借金を返し、評判は良くなる一方、利益相反行為で2006年4月にデモがあり、ソンティ大将のクーデターに繋がった。プレーム氏は2006年7月、陸軍司令官らへ向けた講義の中で「軍部は国と国王のもので、政府はジョッキー(騎手)役を」と、強く発信した。

➡プレーム政権時代は、非議員のプレーム首相が軍の威光と任命制の議会上院を背景に長期政権を率いた変則的な政治体制で、「半分の民主主義」と呼ばれた。2回のクーデター未遂もあった。2016年8月に国民投票で可決された軍政の憲法案は非議員の首相を認め、上院を任命制に戻すなど、「半分の民主主義」体制の復活につながると考えられる。

 

  1. タイの過去25年の政治事情(2
  • 2014年5月22日の軍部介入の直接要因:

インラック政権の汚職と恩赦法の強行可決に対して反対する民衆がデモを2013年12月から起こし、国会解散後の総選挙が行えなかった。さらに暫定政権(になったインラック)首相は利益相反行為の人事異動の件で憲法違反であると憲法裁判所で判決が渡され、首相と大半の閣僚が解任され、こう着状態に陥る

➡インラック首相は、特に恩赦法という、やっていけないことを行い、世間の猛反対を受け、政治はこう着状態に。一方この時の軍部は最後まで賢く待っていた。(続く。次号は、タイ的民主主義を取り上げます)

編者 吉原秀男(Yoshihara Hideo)泰日工業大学(TNI)学長顧問

  • Facebook
  • twitter
  • line

関連記事