タイ鉄道新時代へ

【第66回(第3部26回)】タイからビルマへ。鉄道等輸送をめぐる旅その8

鉄道史からタイの近代化を紐解く試みは、現在、ミャンマー(ビルマ)との関係をめぐって連載を展開中。前回までにクラ地峡鉄道と泰緬鉄道を計6回にわたり取り上げたが、今回からは新たに旧日本軍が同様に建設を目指した3つの陸上輸送路(自動車道)を順次紹介していく。これらは、いずれもタイ国内の鉄道駅とビルマのそれを中継する軍需輸送路としての役割が期待されていた。だが、山岳地帯の険しい地形などに阻まれ、途中で建設を断念したり、後の泰緬鉄道の開通によって放棄されたものもあった。数奇な運命を辿ったタイ・ビルマ間の3つの陸上ルート。まずは、最も南にある「ターク・ミャワディ」ルートの開設時の様子と現在の姿をお届けする。(文と写真・小堀晋一/デザイン・松本巖)

画像はメーソート・ミャワディのタイ側検問所。大型トラックも通行できるが走行はまれだ。

 

ミャンマーとの長い国境線を持つ北部ターク県。人口55万人ほどの小県は7割近くを深い森林が占め、鉱工業もある自然に囲まれた県だ。東南アジア最大のプミポンダムがあり、胴回り約16メートル、高さ約50メートルのタイで最も巨大な樹木で知られる「クラバークヤイ」があるのも同県。国境沿いにはタイ最大のミャンマー人難民キャンプが広がっている。

今でこそ、県のほぼ中心を国道12号線が東西に横断し、一帯が「東西経済回廊」域に指定されてはいるものの、かつては県都タークから国境沿いの街メーソートまでは車が運行できるような道すらなかった。ここに鉄道もしくは自動車道を作り、ビルマ進軍を実現させようと考えたのが戦時中にタイに駐屯していた旧日本軍だった。

このルートを日本軍が注目したのには理由がある。タイ国鉄北部本線から分岐するサワンカローク支線。この支線をあわよくばメーソートまで延伸し、国境を流れるモエイ川を渡河してビルマ側に通じる軍需鉄道として活用できないかと考えたのだった。北部本線と連結しているので首都バンコクとの発着が可能となる。一方で、国境対岸のミャワディから先はビルマ第3の都市モールメン(モーラミャイン)も近い。南方軍の指令を受け、ビルマ作戦を担当する第15軍が進軍ルートの有力な一つと考えたのには、このような背景があった。

1909年開通の同支線の建設を命じたのは、チュラーロンコーン大王の名で知られるラーマ5世だった。ビルマからタークを経由し、中国雲南省へ通じるルートの鉄道建設を狙っていた大英帝国を牽制する形で敷設を急がせた。後の日本軍と同様に、延伸してタークに至る計画もあったとされる。だが、第1次世界大戦後の国際協調下、軍事目的の延伸計画は見送られる。以後、同支線は日本軍に見出されるまで必要性の少ない盲腸ローカル線としてひっそりと時を刻んでいた。

ビルマ侵攻ルートを策定した第15軍は、第55師団主力などをターク・ミャワディルートの建設に充てた。未開の山岳地帯だったことから鉄道延伸は見送り自動車道とし、サワンカローク駅からのアクセス道としての役割を課した。工事は難工事続きだったが、開戦から約2カ月後の1942年2月半ばにはターク・メーソート間が開通。その先の国境越えは依然として人力に頼るしかなかったものの、ビルマへの進軍路がようやく開通した。直後には2万人を超える兵と物資がこの山岳道を通過した。

ところが、間もなく重大な転機が訪れる。大本営が泰緬鉄道の建設を正式決定。タイ・ビルマ間の主要輸送ルートの変更を指示してきたのだった。これにより、ターク方面にあった日本軍部隊は順次撤退を余儀なくされ、このルートの放棄も固まった。開通からわずか4カ月。何ら有効活用されないまま役割を終えた。

ターク・ミャワディ間の国境越えルートが再び脚光を浴びるようになったのは戦後しばらく経った55年のころだった。政府の国際鉄道網構想の中に、南部本線からの分岐支線として建設中だったスパンブリー支線を延伸させ、タークを経由してメーソート、ミャワディへと至るとする新ルート案が盛り込まれたのだった。同支線は、北部本線と平行して走るチャオプラヤー川西岸の新規路線。大戦中に多くの幹線が爆撃を受けて運行不能となったことから、有事の際のバイパス線としての計画がされた。

だが、沿線人口80万人ほどの田舎町に国際路線としての需要は到底見込めない。さらには財源問題も持ち上がり、延伸計画はいつしか立ち消えに。こうしてサワンカローク支線同様、有益性の乏しい盲腸線としてわずかに存続するだけとなった。後に、当地を拠点とするバンハーン首相が誕生した際にも同じ話題が持ち上がったが、雲散霧消の結果に変わりはなかった。

現在、メーソートとミャワディの間のモエイ川には、自動車も走行できる橋が架けられ、人も徒歩で国境を越えられる。ただ、秘境好きの旅人たちが訪ねて来ることはあっても、特に大きな産業や見所があるわけでもない。「東西経済回廊」の看板も名前倒れが実情だ。旧日本軍が切り開いたターク・ミャワディルートの撤退から77年。時計の針は止まったままのように思えてならない。(つづく)

ターク・ミャワディルート建設小史
1906年ごろ イギリスがモールメン(モーラミャイン)からタークを経由、中国雲南省に至る鉄道建設計画を画策。
09年8月 タイ政府が北部本線から分岐するサワンカローク支線を建設。
41年12月8日 太平洋戦争開戦。マレー進攻作戦。
11日 南方軍が第15軍に、モールメンなどの英航空基地占領を指示。
13日 日タイ間で日泰共同作戦要綱を策定。タイが自動車道建設で協力することを明記。

1906年ごろ イギリスがモールメン(モーラミャイン)からタークを経由、中国雲南省に至る鉄道建設計画を画策。
 09年8月 タイ政府が北部本線から分岐するサワンカローク支線を建設。
 41年12月8日 太平洋戦争開戦。マレー進攻作戦。
       11日 南方軍が第15軍に、モールメンなどの英航空基地占領を指示。
       13日 日タイ間で日泰共同作戦要綱を策定。タイが自動車道建設で協力することを明記。
       20日 第15軍がビルマ攻略ルートをターク・ミャワディとバンポーン・タヴォイの2ルートに決定。
       28日 第55師団の山本支隊がタークを出発。1月20日にミャワディに、30日にモールメンに到着。
 42年2月13日 ターク・メーソート間の自動車道が開通。ビルマへの輸送の本格化。5月ごろまで。
  5月ごろ ターク・ミャワディルートの放棄を決定、この方面からの日本軍が撤退。
  6月7日 大本営が「泰緬鉄道建設要綱」を告示。全線開通は10月25日。
 55年ごろ タイ政府が国際鉄道構想網「スパンブリー・ターク・メーソート・ミャワディ」ルートを策定。
 95年 バンハーン首相がスパンブリー線をミャンマー国境まで延伸する計画を検討。
 現在 ターク・ミャワディ区間は東西経済回廊の一部に指定され、バイパス道路が建設中。一方、サワンカローク駅は1日1便、スパンブリー駅は同1往復と運行便の減少が進んだ。

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