タカハシ社長の南国奮闘録
第103話 青経塾と遠山魂
19歳の春、アルバイトをしていたテクニアの前身「高橋兄弟鉄工所」に入社した。ラジオやアンプを作ったり、マイコンを触ったりすることが好きなオタク少年だった私にとって、数値制御で動くNC旋盤やマシニングセンターを触って仕事ができる鉄工所の仕事は天職に思えた。 入社2年目に本社工場は現住所に移転し、家内工業だった会社の社員は15名を超え、身内の割合が減り若い社員も入社してくるようになった。仕事は一層楽しくなり、いつしか社長になりたいと本気で願うようになっていた。 しかし、経営者ともなると、様々な要素が必要となる。経営の本を読めば読むほど不安も増えた。そんな折、青年経営者研修塾(青経塾)の存在を知った。 青経塾は、菊水化学工業を一代で上場させた遠山昌夫先生の教えが詰まった学びの場であり、端的に言えば経営者のエンジンを育む場所だ。 遠山先生は、特攻隊に志願した経験をもつ。終戦を迎えた日本の発展を願い、中部の経営者が学ぶ場を提供するため青経塾を立ち上げた。その青経塾に、23歳の時に入塾した。 入塾すると千日修行というものが始まり、滝行や登山、夜間歩行などを行い、体験の中から忍耐力と精神力を鍛える。修行はとても厳しく、入塾当初200人以上いた塾生は、3年後の卒業するころには3分の1に減る。修行の過酷さに加え、仕事と家庭との両立ができず退塾していく人も多い。 私自身も入塾当初は仕事と家庭と塾のバランスが取れず、会社からは仕事に支障をきたすので塾をやめるように迫られた。家庭では生まれたばかりの息子と義祖母の面倒をみる家内が体調を崩してしまった。家内には人一倍苦労をかけた。塾を続けるためのお金も底を尽き、何度も諦めかけた。 それでも卒業できたのは、家内や塾仲間の支えがあったからだ。過酷な修業を共にした仲間とは一生付き合える関係になれた。入塾前は「社長になりたい」と思っていたが、卒業後は「社長になる」という強い信念に変わっていた。 32歳で社長に就任した当時、テクニアは経営状態が厳しく、起死回生するには社長という立場でもう一度学ばなければならないと思い、再度、青経塾の門を叩いた。そして33歳で36期の塾長を拝命し、59人の塾生を預かる身となった。 塾長という立場になって、塾生の時より近くで遠山先生の教えを学ぶことができた。私の経営スタイルはほぼ遠山先生から学んだ。 先生からの教えはたくさんある。その中でも心に残る一言を紹介したい。リーマンショックと厄年ですべてが壊れかけていた時、先生の元を訪れ、なんとか虚勢を張って現状を報告した。どんな話をしたのかは覚えていない。顔面は蒼白、気力はゼロ、体重も10キロは落ちてやつれていた。先生は、話をひととおり聞いて私を見送るエレベーターの前で、「高橋さんは青経塾のエースですよ」と私の肩に軽く手を添えてくださった。扉が閉まった瞬間、涙があふれて止まらなかった。 先生は私のどん底の状況や心情も分かったうえでこの言葉をかけてくださった。一番苦しかったリーマンショックを乗り越えることができたのは、先生のこの一言があったからだ。 私の心の奥底には青経塾生の誇りと遠山魂が宿っている。近く50周年を迎える青経塾が、この先も優秀な経営者を輩出して栄えることを祈っている。そして私も青経塾の一員として、一人でも多くの経営者の心に火をともせる人間になっていきたい。
2020年8月1日掲載
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