タイ鉄道新時代へ
【第68回(第3部28回)】タイからビルマへ。鉄道等輸送をめぐる旅その10
険しい山岳地帯を越えて進められたタイとビルマ(現ミャンマー)間の主要鉄道駅を結ぶ自動車道路建設は、難工事のため「チェンマイ~タウングー・ルート」が一時棚上げされ、ランパーンからチェンライ県メーサーイを経由、ビルマ・チェントンおよびタカウに至る「ラムパーン~ターコー(タカウ)・ルート」が正式に進軍ルートとして決せられた。そもそも同ルートのタイ側の一部は、時の政権を率い「大タイ主義」を推し進めていたタイのピブーン・ソンクラーム首相(陸軍大将)がビルマ・シャン州併合のために整備したもので、国境までは良好な自動車道が完成していた。だが、その先は険しい山岳地帯となり、軍需物資を積んだ踏破は非常な難行を余儀なくされた。それでもインパール作戦を間近に控えた旧日本軍は、懸命な進軍でビルマ中部の都市マンダレーを目指した。その数は実に1万8,000人に及び、泰緬鉄道、クラ地峡鉄道に次ぐ重要な輸送ルートとしての役割を果たしたのだった。今回は、この「ラムパーン~ターコー・ルート」を取り上げる。(文と写真・小堀晋一)
下流域でタイとの国境をなし、第3の都市モールメン(モーラミャイン)でマルタバン湾に注ぐサルウィン川は、ビルマ・シャン州を流れる全長2815キロ。チベットを源流とするその大河は豊富な水量を誇り、沿岸は険しい谷と尾根とが織り成す「アジアの大地溝帯」を形成。天然の要塞として長らく人間の侵入を阻んできた。
ここを自国の領土に組み込もうと画策したのが、戦時内閣を組織していたピブーン・ソンクラーム首相だった。同州がタイ領であったのは、現チャックリー王朝(ラッタナコーシン朝)初期のラーマ1世の頃まで遡らなくてはならない。だが、間もなくビルマ全域を植民地支配したイギリスによってその勢力は駆逐され、英印軍の支配下に置かれていた。これをタイ領に復帰させ、国威発揚を狙ったのがピブーンの大タイ主義政策だった。
そのために整備がされたのが、タイ国鉄北部本線ラムパーン駅からほぼ真北にチェンライ県メーサーイに至る現国道1号線の整備だった。今では国立公園がおりなす山々の丘陵地帯を貫いて、ピブーンは自動車道の建設を命じた。日本軍が進軍ルートをチェンマイ~タウングー・ルートについては諦めラムパーン~ターコー・ルートに切り替えた時、すでに国境までの工事は完了していた。
しかし、メーサーイからルワック川(メーサーイ川)を越え、対岸のタチレク以北は駄馬が通れるほどの道しかなく、サルウィン川の流域に通じる一面の熱帯雨林が広がっていた。ここを日本軍はわずかな車両と徒歩で踏破しなければならなかった。目指すはインパール作戦の軍事拠点で同国第2の都市マンダレー。1943年12月末までにラムパーンに集結した第15師団の将兵は、歩兵第17旅団歩兵第60連隊のみが自動車に分乗して、一足先にマンダレーの北約200キロにある都市ウントーを目指した。
一方、同師団の主力1万人以上は国境を越えると、徒歩でラムパーン~ターコー・ルートを目指した。中国国境にも近いチェントンからはほぼ西に進路を取り、サルウィン川の畔の街ターコー(現タカウ)に到着。ここでメイミョーにあった第15軍司令部は同師団に対し、マンダレーから北東に延びるビルマ国鉄ラシオ支線の中間駅シッポーまでの進軍を改めて命じた。
ターコーからシッポーまではさらに400キロ近い道のりだった。山岳地帯やぬかるんだ悪路を行く、道なき道の苦行だった。ラムパーンの前線司令部を出発した第15師団は、最終的に900キロ近い徒歩による進軍を余儀なくされ、多くが疲労や病気のため命を落とした。さらには、44年3月から始まるインパール作戦によって、それを上回る数の将兵が屍と化していった。
7月にインパール作戦が中止され、45年3月にマンダレーが陥落すると、ビルマにあった日本軍はタイに司令部を移し、英印・連合軍の進撃に備えた。ラムパーン~ターコー・ルートの国境付近には、新設された第18方面軍の傘下にあった第15軍第4師団の約1万1,000人が配置された。同様に、チェンマイ~タウングー・ルートでは第56師団が防衛に当たるとともに、ビルマからの帰還兵を待ち受けた。
だが、国境を越え、タイ領までたどり着くことのできた将兵はわずかだった。多くがその途中で行き倒れ、「白骨街道」を形成していった。最終的に北部ルートでタイに帰還できたのは、わずか1万1,000人ほどとみられている。(この項終了。次回からは新シリーズ)
ラムパーン~ターコー・ルート建設小史
1941年12月 | 日タイ間で日泰共同作戦要綱を策定。タイが自動車道建設で協力することが明記。 |
42年5月 | タイ軍がビルマのサルウィン川以東のシャン州を占領。タイ領とする。 |
43年1月 | 泰国駐屯軍編成。タイ北部からビルマへの進軍路として、①チェンマイ~タウングー間、②ラムパーン~ターコー間の調査を指示。⇒①ルートの建設優先が決定。 |
6月 | ①の工事開始するも工事は遅延。インパール作戦に従軍予定の第15師団を投入。 |
10月 | 日タイがラムパーン空港の拡張で合意。日本軍のラムパーン駐屯開始。 |
11月 | 第15師団にビルマ進軍命令。ラムパーン~ターコー・ルートを選択。12月ラムパーン集結。 |
12月 | 第15師団に対し、マンダレー北200kmのウントーへの進撃を指示。自動車道を使用。 |
44年1月~ | 第15師団主力は徒歩でマンダレー北東200kmのシッポーを目指す。 |
3~7月 | インパール作戦。7月3日作戦中止。 |
45年3月 | ビルマ第2の都市マンダレーが陥落。 |
これ以降~ | 第15軍は司令部をラムパーンに移し、ラムパーン~ターコー・ルートについては傘下の第4師団が、チェンマイ~タウングー・ルートについては第56師団が防衛を担うことに。 |