タイ鉄道新時代へ

【第1部/第9回】質的向上への転換

ディーゼル機関車や自動連結器の導入、レールの交換などにより始まった第2次世界大戦後のタイ国鉄の復興は、1950年代から60年代にかけて徐々に本格化した。長距離夜行列車の登場、格安な快速列車の運行など庶民の足として機能し始めると、乗客数も増え、毎日運行も実施されるようになった。かつては不安定なダイヤで自動車輸送の発達の前に立ち遅れていたタイの鉄道網。質的向上へと転換を遂げたのがちょうどこの時期だった。タイ鉄道網の戦後復興3回目。質的サービスの向上と、その後の鉄道計画の停滞についてお伝えする。(文・小堀晋一)

「バンコク中央駅」とも俗称される「フアランポーン駅」の構内に立つと、その独自の旅情感に圧倒される。天井には洋風文化を彷彿とさせるステンドグラス。プラットホームには熱帯の草花が茂り、旅の高揚感も自然と増してくる。この南国の始発駅からタイ北部、東北部、東部、南部に向けて運行する長距離鉄道は現在1日約40本。その半数以上は夜間運行の列車である。

タイ国鉄に夜間運行の鉄道「夜行列車」がお目見えしたのは、戦前と意外に古い。バンコクとマレーシアのプライを結ぶ南部本線、バンコク~チェンマイ間の北部本線など急行列車が週に1~2本の割合で運行されていた。ところが、急行には1等車両と2等車両しか連結されていなかったことから、多くの沿線住民にとって長距離夜行列車は高嶺の花であった。戦後になってしばらくも、車両不足などから状況に変化はなかった。

これを変えたのが、1961年に始まった北部本線バンコク~ピサヌローク間の普通夜行列車だった。すでに安価な3等車両で人気を集めていた快速列車も間もなく夜行運行を始め、好評だったことからバンコク(トンブリー)を発ちマレー国境の街スンガイコーロックに直行する便や、バンコク~チャンマイを結ぶ夜行快速列車も登場した。この時、急行列車は毎日運行に切り替わっていた。快速や普通列車の座席は固く、長時間の着席には疲労も少なくなかったが、比較的涼しい夜間の走行とあって人気は上々だった。

こうした質的サービスの向上は、50年代末以降に始まったタイのモータリゼーションへの危機感の裏返しという側面も強くあった。タイ全土の国道や県道などの主要舗装道路の総延長は、60年初頭に3000kmに達していた。同じ時期に始まった高規格道路の建設も急ピッチで進められていた。登録自動車台数も右肩上がりで年々増えていった。まさに新たな時代の鉄道のあり方が問われていた。

貨物輸送も大きな影響を受けた。自動車輸送との競合に晒されたタイ国鉄は、60年代になって相次ぐ運賃の値下げを実施。従来の車両ごとの課金から積載重量に応じた課金に制度を改めた。また、国内の工業化の進行に合わせて、石油製品を積載するタンク車やセメント輸送に従事するホッパー車など専用車両の導入も行い、きめ細かい需要に応えられるようにした。タンク車はタイ国鉄の車台に石油会社が用意したタンクを積むのが一般的なスタイルで、60年代半ばには全貨車の1割弱がタンク車として活躍した。

ただ、これには外的要因もあった。50年代末よりラオス一帯には南ベトナム解放民族戦線の部隊がたびたび越境し、ラオスの共産主義革命勢力パテート・ラオを支援するなど勢いを増していた。一方で、当時のラオス王国政府はアメリカの支援を受けて内戦に備えていた。この時、多くの石油製品などの軍需物資がタイ国鉄を経由して北部の都市ノーンカーイからラオスの首都ビエンチャンに運び込まれた。ラオス内戦は結局、20年以上も続いた。

60年末ごろからは、バンコクに向けたセメント輸送路としても機能した。主に東北部(イサン)地方にあった産地からはタイの地場財閥サイアムセメント社が持つバンコク郊外の工場にセメントが次々と運ばれた。最も多い時で、バンコクに向かう全輸送容量の半数近くも占めた。まさにタイの工業化を進める大動脈としてタイ国鉄が機能した。

一方で、限られた財源を質的サービス向上に集中的に投下したことから、鉄道未達地から要望の強かった新線の建設工事は遅々として進まなかった。別表「タイ鉄道略年史」にあるように56年から67年にかけて5区間で新線が開通開業したものの、その他の区間では着手はしながら建設の中止や延期が相次いだ。このうちバンコクと主要な観光地プーケット島の対岸を結ぶ南部本線スラーターニー~ターヌン間は、クラ地峡のほぼ中央部キーリーラットニコムで財源が尽き、仮に延伸したとしても赤字が予想されることから工事は中止とされた。現在は盲腸線となって、1日1往復、地元に住む子供たちの通学路線として運行されている。

北部本線から北東に分岐するタータコー線は、もともと蒸気機関車向けの薪を輸送するため設置された軽便鉄道だった。これを改軌して一般鉄道にする計画があり工事が始まったが、薪の需要減や近くを走る道路の整備が行われたことからこちらも中止となった。バンコク都市部の渋滞を緩和するために計画されたバンコク北部バンスー~クローンタン間も、環状自動車道路の整備が進んだことから用地買収の段階で見合わせとなった。第2次大戦時、チャオプラヤー川に架かるラーマ6世橋が連合軍に爆撃され、南北の鉄道網が寸断されたことを教訓に建設が進められていたバイパス線ノーンプラードゥック~ロッブリー間も、採算面での目処がつかなくなり、開通したスパンブリーまでの盲腸線となったまま工事は中断された。

他方、計画段階にあった新路線も棚上げが相次いだ(別表参照)。北部デンチャイから最北部チェンライに向けて計画されたチェンライ線は、もともと中国雲南省とを結ぶ国際鉄道としての役割が期待されていたが、調査費が計上されただけで具体的な着手は今も行われていない。ラオス国境ノーンカーイ方面のバイパス線として建設されたケンコーイ~ブワヤイ間の新線には、ラオス対岸ムックダーハーンからナコーンタノムまで伸びる構想があったが、高規格道路の建設が優先され同地域一帯は今でも鉄道未達地のままだ。

スパンブリーから北進し、メーソートを抜け隣国ビルマに延伸する新しい国際鉄道網の計画もあった。この区間は、終戦直後1947年に設置された国連アジア極東経済委員会(現:国連アジア太平洋経済社会委員会)が主導した「アジア縦貫鉄道構想」の一区間としても位置づけられ、国際的な関心は高かった。当時、同委員会は75年までに同構想を実現するとしていた。ところが、その後のインドシナ半島での戦争や内戦の勃発、さらにはビルマ(現ミャンマー)国内の軍事動向が影響し、今日まで棚上げの状態が続いている。

質的サービス向上の一方で、相次いで中止や棚上げとなったタイ国鉄の新線建設計画。これらの計画はいずれもタイ政府が1941年に策定した「全国鉄道建設計画」がベースとなっており、当時も終戦直後も鉄道網の早期整備が国威発揚の中心につながると考えられていた。ところが現実にはそうはならなかった。その最大の原因となったのが、タイ国内の急速なモータリゼーションだった。

水運が大きなウェートを占め陸上交通網が未発達だったタイでは、立憲革命前後から鉄道網と道路網が相互補完しながら国内整備を進める方法が考案された。安全保障上重要な拠点については、鉄道と道路を併設する措置が採られた。あくまで鉄道と道路は対等な関係にあったが、50年代末から始まった高規格道路の建設を中心とした道路行政が、次第に国内交通網政策の中心となっていった。それを強行に進めたのが、ピブーンソンクラーム首相をクーデターにより追放したサリット元帥の内閣だった。次回はタイのモータリゼーション化とその余波。(つづく)

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