タイ鉄道新時代へ
【第1部/第1回】鉄道誕生前夜
タイ政府が掲げた総額2兆バーツ(約6超4000億円)を超えるインフラ整備計画。その80%以上は鉄道の整備に振り分けられる見通しで、政府も2014年を「鉄道新時代」の元年と位置づけたい考えだ。目玉とされるのが、日本の新幹線を想定した「高速鉄道網」と、未だ単線が大半の既存鉄路の早急な複線化。首相府の報道官によれば、これにより国内総生産(GDP)を1%底上げするほか、50万人の雇用を創出するという。昨年が鉄道開業120年のタイ。タイの鉄道事業はどのように始まり、どのような変遷を遂げたのか。本企画では、第1部として、時代ごとの背景事情を盛り込みながらタイの鉄道史を可能な限り俯瞰し、第2部として主要な鉄道路線の現状・課題などを追う。戦争やモータリゼーションなど時代に翻弄されながら今に至るタイの鉄路。新時代のタイの鉄道を紹介する。(文・小堀晋一)
日本の約1.6倍、51万3000キロ平方メートル余りの国土を誇るタイ王国。父なる川チャオプラヤー川は肥沃でなだらかな大地と豊富な食の恵みをもたらし、川の水は水運という貴重な国民の脚となって産業や暮らしを支えた。だが、それは反面、産業革命そして近代化の象徴とも言い得た鉄道の導入を遅らせ、タイを今なお「鉄道後進国」に据え置く要因ともなった。現在の鉄道総延長距離は、国土の小さい島国・日本の約2万7500キロメートル、その7分の1ほど、4000キロメートル余りでしかない。そのようなタイで鉄道がどのようにして普及し、これからの鉄道新時代をどう迎えようとしているのか。まずは、タイ鉄道史の黎明期を紐解くことにしたい。
タイで初めて官営鉄道が開通したのは1897年3月26日のこと(民営鉄道はその4年前。略年史参照)。中部アユタヤに向けて初めての蒸気機関車がバンコクを発車した。一方、日本の鉄道開業日は明治5年(1872年)9月12日(旧暦)。新橋駅-横浜駅間を汽車が走ったことは日本人なら誰でも知っているが、それから四半世紀も後のことだった。タイでは3月26日を「鉄道の日」として、毎年、この日を迎えるとバンコク中央駅で知られる「フアランポーン駅」でセレモニーを行うなどしている。
東南アジア各国と比べても鉄道の導入は遅かった。東南アジアで初めて鉄道が建設されたのはオランダ領東印度のジャワ島。香辛料の買い付けに訪れたオランダ東インド会社によって植民地化政策が進められ、世界遺産のプランバナン寺院群があるジャグジャカルタと沿岸部を結ぶ鉄道が建設された。完成は1873年のこと。その後、ジャワ島では次々と鉄道網が広がり、1900年時点で3000キロを超えるほどまでに整備された。
次いで鉄道が敷設されたのは、実質的にイギリスの植民地となっていたビルマ(現ミャンマー)だった。1877年、ラングーン(ヤンゴン)とエーヤワディー川(イラワジ川)中流域の都市プロム(ピエ)間を初めて鉄道が走った。フランス領インドシナ(仏印)でもサイゴン(ホーチミン)から伸びる鉄道が1885年に建設され、英領マラヤ(マレーシア)でも1886年にはクアラルンプールを発着する鉄道がお目見えした。
このように、タイにおける鉄道の歴史は、周辺諸国と比べて最大で20年ほども遅れて始まった。その背景に、冒頭に触れた水運の発展があった。水の恵みが豊かなタイ。チャオプラヤー川からはいくつもの支流や運河が網の目のように走りめぐらされていた。南方への交易には、穏やかなタイ湾が物流を支えた。産業革命に伴う蒸気機関の技術はタイにも伝わったが、搭載される対象は機関車や車ではなく、船、すなわち蒸気船だったことが、そうした実態を物語っている。タイの自然環境が船による物資の移動を盛んなものとし、象や牛、馬といった運賃の高額な駄獣による運搬は限られた山越えなどの補完的な意味合い程度でしかなかった。
1868年から1910年まで在位したラマ5世(チュラーロンコーン大王)は、タイで初めて鉄道の事業家に取り組んだ国王だった。だが、それは国土の強靭化や産業の発展などといった「国の成長」を狙ったという側面よりも、今日で言う「安全保障」に近い考え方が背後に存在していた。一つに当時属領だったルアンパバーン王国(現ラオス北部)への異民族の侵攻と、二つ目に西方から勢力をうかがうイギリス、同様に東方から接触を試みるフランスの動きがあった。
ベトナムから山岳地帯を越え、ルアンパバーンに攻め入ったのは漢民族の流れを引くチン・ホー族だった。ラマ5世は度重なる侵攻に脅威を抱き、チン・ホー族の一掃を決意、バンコク駐留の国軍の投入を決断した。だが、間もなく中国・太平天国の乱の残党・黒旗軍の客家グループも侵攻軍に加わり、戦線は混乱。こうした時に露見したのが、兵站いわゆる物流供給ルートの限界だった。
チャオプラヤー川を使えば、沿岸の北部ピッサヌロークまで兵士の食糧となるコメや武器などは運搬できる。しかし、その先、メコン川を超えてルアンパバーンには、牛などの駄獣に頼った陸上輸送をしなければならない。ところが、水運が主要な交通手段だったタイで、長距離輸送向けの道路はほとんど整備されておらず、ひとたび雨季ともなれば激しいスコールが降り注ぎ、道路は泥沼と化した。牛や象などは疲労のため倒れ、進軍にも影響した。こうして注目を集めるようになったのが、諸外国で導入が始まった安定的な輸送手段である鉄道だった。
もうひとつの契機であるイギリス、フランス両列強の動きもラマ5世に危機感を募らせ、鉄道の事業化を決意させた。ビルマを抑えていたイギリスは、南部の港湾都市モーラミャインからタイ西部のメーソートに入り、タークを抜けてチェンライから中国・雲南に至るルートの確保を企図。1884年、タイ政府に民間企業を通じて鉄道建設の申請をしていた。フランスも同様にラオスからタイ東北部に至る鉄道建設を計画していた。
外国による鉄道の敷設が進めば、大量の兵士を乗せた外国の軍隊が大量の物資とともに自国に攻め込んでくるとも限らない。そうなると、いずれ国土の割譲にもつながるかもしれない。そう考えたラマ5世は、諸外国の動きを事前に封じ込めるためにも、タイ政府主導による鉄道建設を進めようと考えたのだった。
タイにおける本格的な鉄道建設は間もなく始まった。イギリスの調査会社パンチャード社にバンコク-チェンマイ間などの路線調査を発注したのは1888年。だが、東南アジアで植民地政策を進めるイギリスへの不信感は根強く、一方でドイツ人技師ベートゲにもバンコク-コラート間の路線調査を依頼した。英仏列強に周囲を囲まれたタイでは、伝統的に英仏への反発意識が根底にあり、それが後進列強国のドイツや日本、ロシアなどへの友好意識として現れている。タイ政府はドイツ人であるベートゲを鉄道局局長にまで処遇し、タイの鉄道建設を進めた。
タイの官営鉄道として初めての路線となるバンコク-コラート間はその後、1897年にアユタヤまで開通し、コラートへは1900年に全通した。途中、工事を落札した英企業キャンベル社とのトラブルがあり、契約破棄などの混乱も生じたが、以降は政府が主導し、官営鉄道事業が定着化するきっかけともなった。98年にはバンコク-チェンマイ間の北部本線の建設も始まり、1908年にはピッサヌロークまでが開業した。
タイ政府による鉄道建設は、当初こそ国内外の民間資本も参加して始まったが、英仏列強の植民地政策への抵抗や落札企業とのトラブルもあって、1900年代初頭以降は一貫して官営事業として展開されることになる。あたかも、明治維新を自国の富国強兵策で乗り越えた日本新政府のように。タイにおける鉄道の始まりは、英仏列強などとの緊張の中から生まれ、軋轢や警戒とともに発展していった。(続く)