タイ鉄道新時代へ
【第60回(第3部20回)】タイからビルマへ。鉄道等輸送をめぐる旅その2
連合国との開戦に踏み切った旧日本軍は、中国内陸部に拠点を移し抵抗を続ける蒋介石国民党政府を孤立させるため、インド北東部からビルマ(現ミャンマー)北部を経由、雲南省に向けて行われていた連合国による物資の支援を遮断、「援蒋ルート」を断つ計画を立てる。そのためにはビルマの平定が欠かせないとして、早々にビルマ領内への進軍を決断した。ところが当時のタイ~ビルマ間は、鉄道はもとより自動車が通行できる道路も存在しない状況で、まずは輸送路の建設が必要とされた。こうして計画されたルートが、前回取り上げた5つのタイ~ビルマ間鉄道等輸送路だった。今回はこのうちの一つ、旧日本軍が初めてビルマ領内に足を踏み入れたことで知られるクラブリー(ラノーン県)~ビクトリアポイント(ビルマ)間を取り上げる。(文と写真・小堀晋一/デザイン・松本巖)
クラ地峡鉄道の建設もさることながら旧日本軍の当時の最大の関心は、クラブリー川対岸ビクトリアポイント(現コータウン)から始まるビルマ領内における輸送の可能性だった。自動車が走行できるような陸路はなく、輸送はもっぱら船舶が予想された。ただそれも、アンダマン海を北に向かう海岸線はマングローブが生い茂るジャングルが岸辺にまで群生。仮に船で発ったとしても水運として活用できる水深のある航路があるのかどうか。航行が可能であったとしても荷揚げに適する場所があるのかどうか、こういったことについての情報が極度に乏しかった。
そこでまず命じられたのが、現地の子細な調査だった。開戦翌日の1941年12月9日、南方軍傘下第55師団所属の宇野支隊主力(約2200人)は、タイ側のチュムポーンからクラ地峡を越えて国境の街クラブリーへ。14日にはクラブリー川を渡河して、対岸のビルマ領内マリワンに上陸。ビクトリアポイント市街地を占領した。主力はそのまま約5キロ北にある飛行場や、さらに約150キロ北にあるポックピアン飛行場も占拠。進軍する日本軍が当地から発った航空機によって爆撃される危険性を除去した。作戦はまずは順調だった。
敵勢力を駆逐した後、航路確立のために一帯の調査が行われた。ビルマ国内で諜報活動に当たっていた南機関はこのころ第15軍傘下に編入されており、その調査の一つとして「ビルマ工作作戦」を起案していた。作戦はターク県メーソートから西進するビルマ領内モールメン(現モーラミャイン)方面に重点を置いてはいたが、ビクトリアポイント方面にも水上支隊が編成され、当地から400キロ以上は北上したメルギーという地方港までの航行ができるのかどうかが検討された。結果、大型船舶は難しくても、メルギーなどを経由することでビルマ国鉄の南東部終着駅イェーまでの兵士や物資の輸送が可能であることが確認された。
ビルマ領内での船舶輸送の目途が立ったことで、タイ側ではクラ地峡鉄道の建設が進められた。43年3月に調査を開始。工事はマレー方面からの労務者を主な労働力として急ピッチで進められ、同年末には開通式を迎えた。これにより、タイ湾側のチュムポーンを発ち地峡鉄道を経由してビルマ領内を船舶で北上するルートは、タイからビルマに向けた進軍のための重要な輸送路の一つとして確立されることになった。
44年が始まったころのクラ地峡鉄道の輸送能力は、日本側の資料によれば10両編成の列車が1日に4往復され、4月以降も9両編成が6往復運行されていた。1日あたりの輸送量は500トン程度で、工事を急ぐために下方修正した目標値の日量300トンを上回っていた。ただ、時を追う毎に物資不足は深刻となっており、十分な能力を発揮せぬまま運行は細々と続けられた。
クラ地峡鉄道は、旧日本軍のビルマ進出を助けるため、兵士や軍需物資の運搬を目的に建設されたとの理解が一般的だ。それに間違いはない。だが実際には、日本人以外にもこの路線を祖国解放のために積極的に活用した人々がいた。反英闘争のため組織された在マレーシアのインド国民軍。ガンジーと袂を分かち、独立武力運動に身を投じたチャンドラ・ボース(1897~1945年)が指導者だった。
鉄道を利用したのは、マレーシアの錫鉱山などで労務者として従事した後、英軍によって捕虜とされた人々だった。日本軍の進駐後に拘束を解かれ、ボースによって現地で部隊が組織された。マレー鉄道を経てタイ側のチュムポーンへ。そこからクラ地峡鉄道に乗り換えクラブリーを目指した。
タイからビルマに渡ったインド国民軍の兵士は44年2~3月ごろをピークに総勢約1万8000人に上るものと見られている。クラブリーから先は船舶に輸送手段を変え、目的地を目指した。その多くはビルマ戦線に身を投じ、英印軍からの祖国解放を信じて終戦まで戦った。
現在、クラブリー~ビクトリアポイント間には、海上の国境を越えて就航するいくつかの民間運行会社が存在し、地域の人々の生活航路として運行が続けられている。ただ、双方にその先の大都市に至るまでの連絡手段に乏しく、観光客が好むような景観地とはなっていない。戦後70年以上が経過し、当時を偲ぶ施設も、往時の様子を語る高齢者もめっきりと少なくなった。歴史だけが静かに時を刻んでいるだけだ。(つづく)