タイ鉄道新時代へ
【第35回(第2部/第17回)】バンコクからマレー半島の商都ペナンを目指した(その1)
バンコクから南へ1,000km余り。南部最大の都市ハートヤイから南西に分岐し、マレーシアとの国境パダン・ブサール駅を経由、マレー鉄道に乗り入れているのがタイ国鉄の南部本線だ。だが、登記上、このルートはあくまで「支線」扱いであり、マレー半島東岸を南東に下るスンガイコーロック止まりの路線が正式な「本線」となっている。
バンコクから南へ1,000km余り。南部最大の都市ハートヤイから南西に分岐し、マレーシアとの国境パダン・ブサール駅を経由、マレー鉄道に乗り入れているのがタイ国鉄の南部本線だ。だが、登記上、このルートはあくまで「支線」扱いであり、マレー半島東岸を南東に下るスンガイコーロック止まりの路線が正式な「本線」となっている。どうして、このようなことになったのか。その背景の一つにはマレー半島西岸の商業都市ペナンにおける商人らの存在があった。今年9月の某日、かつてと同じルートを鉄路で旅した。(文・小堀晋一)
タイ時間午後2時45分。フアランポーン駅(バンコク中央駅)を出発した10両編成(機関車除く)の韓国大宇製(1996年製造)35番列車は定刻通り、一路マレーシア側の終着駅バターワースを目指した。途中の国境駅パダン・ブサールまでだけでも18時間を超える長旅。車窓に広がる殺伐とした風景はいつまでも同じ装いのまま姿を変えず、見ている者をただただ退屈にさせる。夕暮れ前、早めの夕食を食堂車で取る以外に何もすることがなかった。
予想していたことでもあったので、カバンからノートPCを取り出すと、溜まっていた原稿執筆を始めた。ボックス席の向かいにはまだ人は座っていなかった。ところが、悪路で知られたタイ国鉄南部本線。車両は幾たびも激しく揺れ、その都度、座席は音を立てて大きくきしむ。キーボード操作どころではなかった。それでも、どうにか一仕事終えると、いよいよ成すことが何もなくなった。担当の車掌がちょうど2段ベッドの設営を始めたこともあって、諦めて早めの寝床に就くことにした。
目覚めると、すでに窓越しに朝日が姿を現そうとしていた。起きている乗客もまだ少ない。地図と時計で確認すると、分岐駅があるソンクラー県ハートヤイの手前20キロほどの地点にいるらしい。間もなく車掌が巡回を開始、上段のベッドを畳んでボックス席へと座席を戻していった。ハートヤイ分岐駅では20分ほど停車。この間、朝食を販売するための売り子やマレーシアの紙幣リンギットへの両替を呼びかける業者らが慌ただしく車内を出入りしていた。
間もなくして列車は何の音も立てずにゆっくりと発車。パダン・ブサールまでの約45kmを目指した。何も変わらない無機質なまでの車外の風景。それでも1時間少しほどして国境に到着、その場でまた10分近く停車すると、やがてマレーシア側ホームへと静かに入線していった。
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タイ北部への侵入を繰り返す異民族の討伐や東方国境に向けた安全保障上の理由から建設が始まった北部本線や東北部本線とは異なり、タイ国鉄の南部本線は当初から「必要のない路線」と政府内では受け止められていた。バンコクから南へマレーシアやシンガポールへはタイ湾を船で陸地沿いに伝わる沿岸航行が存在していた。どんな陸路よりも安く、早く移動できる手段に代わるものはないと考えられていた。
転機となったのは、英領マレーに住む英国人らによる鉄道建設申請だった。20世紀初頭、タイ政府はまだ民間資本による鉄道建設を認めており、これに従い民営鉄道としての南部本線が認可された。ところが、資金調達に失敗したことで計画は頓挫、やむなく政府が引き取ることに。こうして建設が進められたのがチャオプラヤー川西岸の旧トンブリ(バンコクノーイ)~ペチャブリー(ペッブリー)間の150.49kmだった。
必要性の認識が乏しかったことは、その構造など設備の概観からでも分かる。ペッブリーまでのターチン川などに架かる3本の長大橋。架橋に鉄の素材が使われたのはこの3橋のみで、他の小規模な橋ではもっぱら木材が使用された。また、軌道も、先に開通していたバンコク~コーラート間(北部、東北部各本線共用)の1,435mm(標準軌)ではなく、狭軌である1,000mmが採用された。同じメートル軌を採っていたマレー鉄道との相互乗り入れが念頭にあったという見方も不可能ではないが、当時の様子からして工事費を抑える必要性のほうが高かったようだ。
ペッブリーから先の延伸は、タイ政府が抱えていた不平等条約の解消交渉と連動して進められた。この時、政府は一部の条文改正と引き替えにタイ領だったマレー4州(クランタン、ケダ、トレンガヌ、プルリスの各州。現マレーシア領)をイギリスに割譲。同時に盛り込まれたのが、鉄道建設資金400万ポンドを英政府がタイ側に貸し付けるという内容だった。これにより本格的な建設が開始され、ペッブリー、半島西岸のカンタン、同東岸のソンクラーの3地点から工事がスタートした。
こうして1911年にペッブリー~フアヒン間が、14年にはカンタン~ソンクラー間が鉄路で結ばれた。マレー半島の東西が鉄道で接続されたのは史上初めて。この結果、タイの中部地方で生産されたタイ米などの食糧や資材が船と鉄道によって西海岸の都市プーケット一帯に運ばれることが可能となった。それまでビルマからの輸入に頼っていたこの地方の経済を大きく一変させた要因ともなった。
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列車はマレーシア側プラットホームへ。いよいよマレー鉄道の旅が始まる。(つづく)