タイ鉄道新時代へ
【第36回(第2部/第18回)】バンコクからマレー半島の商都ペナンを目指した(その2)
タイ国鉄とマレー鉄道の相互乗入れは、タイ南部の商都ハート・ヤイを起点に分岐支線を南西方向に45.26kmほど進んだ先のマレーシア側パダン・ブサール駅から始まる。全ての列車は、いったんここで停車をし全乗客も下車。タイ側出国手続とマレーシア側入国手続を行う。周囲に見るところもない鄙びた街だが、陸上でつながる鉄路唯一のれっきとした国境の街。だが、100年少し前、当時のタイ・マレーシア両政府は現在とは異なる半島東側を相互乗り入れのルートを計画線とし、工事を進めいた。それが、どうして変わったのか。マレーシア・ペナンの旅は第2回目――。(文・小堀晋一)
タイ・フアランポーン発10両編成(機関車を除く)の35番列車がパダン・ブサール駅に到着したのは、到着予定時刻より10分ほど早い午前7時42分のことだった。マレーシアのプラットホームはタイのそれよりずいぶんと高さがあり、備え付けの階段では降りることはできない。そこで駅係員が乗降口に鉄板を渡し乗客を案内してくれた。
下車した乗客を待ち受けていたのは、ムスリムの女性が着用するヒジャブを覆った女性係員。出国手続を行うよう促され窓口に向かうと、そこにいたのは国籍不明の強面の男性だった。作り笑顔をしてみせたが返事もなく、パスポートは投げて返された。続くマレーシア側入国窓口は左に折れた20m先に。一転して「ご旅行ですか?」と陽気な係官。「ペナンに行くんだ」と言うと、「良いところですよ」と返事が返ってきた。窓口を過ぎれば、もうマレーシア領内。階段を上って待合室へと向かった。
待合室で知り合ったのは、バックパッカーの日本人大学生と南米アルゼンチンから来たというカルロスという30代の男性。ここから珍道中が始まった。カルロスは明るくフレンドリーなのだが、英語が一言も解せない。「What’s your name?」も通じないので初めは名前すら分からなかった。今日のうちにシンガポールまで行きたいらしいのだが1000kmを一日で走破するのは不可能。だが、それさえ伝わらずともかく列車に同乗することにした。
乗車した快速列車は4両編成、ペナン島対岸のバタワース行き。160kmほどの旅だ。カルロスは早速知り合ったベトナム人の女性グループと記念撮影に興じている。なるほど地球の裏側から単身で来ただけのことはある。殺風景な車窓が続くこの区間を楽しく乗れるのはカルロスくらいではないかと、微笑まずにはいられなかった。
午前11時25分すぎ、列車はバタワースに到着。全ての乗客は乗り換えとなる。たまたま行き先が同じ日本人大学生とペナン行きフェリー乗り場を目指そうとするが、カルロスが気がかりだ。見かねて券売窓口に連れて行き、「終着クアラルンプールまで1枚」と買い求めホームまで案内した。「これに乗って行けよ」「ありがとう」。きっと、そう叫んでいたカルロスの笑顔は憎めなかった。
バンコクとシンガポールとを結ぶマレー半島縦貫鉄道は全長約1904km。ロシア・シベリア鉄道の9289 kmには遠く及ばないものの、アメリカ横断鉄道2826kmとは良い勝負だ。タイ南部を東岸に進んだ後はハートヤイから西側内陸部に進路を転換。マレーシア入国後は西岸を走行し、ジョホールバル水道を経てシンガポールに乗り入れる。ところが、縦貫鉄道建設時、想定されていたのは現在とは別のルート。クアラルンプールから南に約170km、分岐駅グマスから枝分かれして半島をほぼ中央部に北上、東岸国境の港町トゥンパット近郊でタイ側と接続するルートだった。
マレーシア国内の鉄道建設もタイと同様19世紀末に始まった。当初は採掘した錫の搬送が主な目的だった。その後、英国の支配下で路線の拡大は進み、1903年にはジョホールバルからバタワース近郊のプライまで約757kmが全通。産業の大動脈となった。ところが、タイ側との国際鉄道接続については、タイ政府が半島東岸を走るバンコク~スンガイコーロックを南本線の基幹線と位置付けていたことから、トゥンパット近郊で行うとしていた。現在のハートヤイ~パダン・ブサール接続は念頭にはなかったのである。そこに待ったを掛けたのが、ペナン島の経済を牛耳る華僑のメンバーたちだった。
バンコクからの国際列車がペナン対岸を経由せず東回りの路線を通れば、バンコクとシンガポールの関係が強まり、ペナンの国際的地位は低下しかねない。そう考えた華僑たちは政府に猛反対の陳情を展開。東回り線の難工事の遅れもあって、西岸を走る列車についてもタイ側との接続を認めさせたのだった。こうして18年、東回り線に先だってハートヤイ~パダン・ブサールが開通、一番列車が汽笛を挙げて運行していった。
東回り線も遅れること31年に全線で開通。こちらもバンコクからの直通列車を迎え入れた。だが、旧日本軍が泰緬鉄道建設のためレールを徴用・移設させたことから戦時中には運休となった。戦後、マレーシア政府によってレールの復旧が行われたが、今度は70年代になってタイ深南部のイスラム独立派が武装闘争を展開。安全確保のため現在に至るまで閉鎖されたままだ。(敬称略、つづく)