タイ鉄道新時代へ
【第56回(第3部第16回)】今なお残るクラ地峡鉄道復活への期待その1
鉄道建設史を通じ、タイの近代化への歴史を紐解く連載企画「タイ鉄道新時代へ~王国の繁栄を築いた鉄路~」は今回から舞台をタイ国内に戻し、隣国ミャンマー(当時ビルマ)との関係に焦点を当てていく。19世紀末には初の官営鉄道の運行を成し遂げたタイだったが、国際鉄道の運行については1918年にマレー半島ペナン対岸との直通運転を開始させた以降は、極めて慎重な姿勢に転じていた。当時、東隣のインドシナにはフランスが侵攻。一方、西のビルマではイギリスが植民地化政策を進めていた。安易な鉄路の接続が、国の安全保障を脅かすとの判断があった。こうした中、ビルマとのレールを連結しようという動きは太平洋戦争時、旧日本軍によって実行に移される。旧泰緬鉄道、そして旧クラ地峡鉄道であった。前者のタイ側区間についてはすでに本稿で何度か取り上げた。そこで今号からは、クラ地峡鉄道を突破口として、泰緬鉄道のビルマ側区間、さらにはその延伸区間についての昔と今を掘り起こしていく。(文と写真・小堀晋一)
南部チュムポーン県とラノーン県が東西に並ぶタイ南部の一帯は、マレー半島が最もくびれたところとされ、その直線距離は約44キロ。アンダマン海に流れ込むクラブリー川が食い込むように河口を広げる場所として知られる。付近は温泉も湧く、風光明媚な景観地。ここに旧日本軍がクラ地峡鉄道を開通させたのは、戦局が傾きつつあった1943年12月のクリスマスのことだった。
その北約400~500キロの泰緬国境の山岳地帯では、前年の6月から泰緬鉄道の建設が始まっていた。ところが、想像を絶する難工事だったことや工期を急いだことから、標準軌からメートル軌へと規格を縮小。兵士や弾薬、糧秣を運ぶ輸送能力も当初想定の日量3000トンから1000トンに落ち込むことが確実となった。このため不足分を補う必要があり、バイパス線としてのクラ地峡鉄道の建設が決まった。
チュムポーン駅から現在の国道4号線沿いに丘陵地をほぼ真西に進む。ビルマ国境の手前を左手に折れ、後はクラブリー川左岸を南下する全長約91キロ。だが、10カ月の突貫工事で新たに確保できたのは、日量300トン余りでしかなかった。しかも、満足な実績も積まないまま英印軍の爆撃を受け、この地峡鉄道は開業からわずか数カ月で運行を停止した。
泰緬鉄道が、タイ人ほかモン族らビルマ側の労務者に加えて、連合国側の戦争捕虜が強制的に動員された「死の鉄道」だったのに対し、クラ地峡鉄道は主にマレー人やシンガポールの中国人が賃金を対価とした労務者として雇われていた。多い日で1日1000人余りがマレー鉄道を通って現地入りした。その総数は半年間で約3万人とみられている。宿舎や食事は十分ではなかったようだが、連行されてきたとの記録はない。一方、マレー半島東海岸線の既設レールは強制的に徴用された。
建設工事は、旧日本軍の南方軍鉄道第9連隊第4大隊が「クラ地峡鉄道建設隊」を編成して当たった。タイ側は当初、自国側での建設を主張したが、日泰攻守同盟条約を結んでおり、最終的に押し切られた。路盤の整備工事は日本の土建企業が独占的に請け負った。労務者の中継地だったチュムポーンは人であふれ、人口も増えて活況に沸いた。
規格が縮小された泰緬鉄道のバイパス線として、もう一つの輸送路も考案された。タイ北部チェンマイと、ビルマ国内のラングーン(現ヤンゴン)から北約280キロにあるタウングーとを結ぶ約400キロの山岳自動車道路。国境に連なる尾根は急峻で、チェンマイからはいったん北西に針路を取って反時計回りに迂回、メーホーンソーンから越えなければならなかった。この道路工事には泰国駐屯軍(司令官・中村明人中将)が当たり、労務者の動員と機材の調達をチェンマイ県側が担当した。だが、思うように動員は実現できなかった。
このため日本軍は、タイにあり後にインパール作戦に投入する第15師団の工兵連隊と歩兵第1大隊をチェンマイに投入。輸送道路の建設とこの地の開設する飛行場の建設に当たらせた。多い時で最大1万人の日本兵が従事したとみられている。しかし、工事は難航を極め断続的に中断。最終的にチェンライの北メーサイからビルマ側に進入する輸送路に変更され、幻と終わった。
日本の敗戦によって、泰緬鉄道とクラ地峡鉄道という2本の軍事鉄道と、北部チェンマイから発する軍需輸送路は全て廃止となった。このうち泰緬鉄道は国境で分割されミャンマー側は廃止に。タイ側は政府に返還され後に一部が復活している(既報)。北部のバイパスと期待されたチェンマイ・タウングー輸送道路も航空機の発達などから未だ開通していない。
一方、クラ地峡鉄道も戦時中に爆撃を受け運行不能となって以降、修繕されないまま廃止を余儀なくされた。レールは引き剥がされ、駅舎や鉄道施設も一切が取り壊された。現在のチュムポーン駅からその足跡を辿ろうとしても、一切の痕跡を見つけることができない。
ただ、タイ国内では、戦後の数十年が経った今も鉄道の復活あるいはスエズ、パナマの両運河になぞらえた地峡運河の建設構想が思い出したかのように時折叫ばれている。しかも、その多くは急速に経済力を増し、野心に満ちた中国や韓国などの資本によるものだ。次号からはそうした動きを紹介するとともに、取り残された現地の様子をお伝えする。(つづく)