タイ鉄道新時代へ
【第57回(第3部第17回)】今なお残るクラ地峡鉄道復活への期待その2
第2次大戦中に当地に侵攻した日本軍によって、対ビルマ(現ミャンマー)輸送路のバイパス線として建設がなされたクラ地峡鉄道。ところが、英印軍などの猛攻によって施設は破壊され、開業からほどなくして運行停止に陥る。日本の敗戦後は、マレーシアやビルマ政府ら関係国によって線路は引き剥がされ、駅舎などの関連施設も一切が取り壊された。以来、正確なルートや駅舎の位置も分からぬまま70有余年が経過しようとしている。ところが、ふとしたきっかけから地峡鉄道の、あるいはそれに代わる地峡運河の建設計画がここ数年来、持ち上がるようになり、外国企業の目論見と合わせてにわかに注目を集めるまでになっている。クラ地峡鉄道復活をめぐる話題の今回は、内外の政治的思惑を集めた概観論。(文と写真・小堀晋一)
今から5年半ほど前の2013年の1月上旬のことだ。ラノーン県ラウン郡の道路工事現場から、クラ地峡鉄道で使われたとみられるレール用の鋼材が16個見つかる〝事件〟があった。クラブリー川が一気に川幅を狭め、すぐ手の届くところまでミャンマーの地が迫ってくる、そんな密林での出来事だった。
ラノーン文化事務所によると、見つかったレールは1本が1メートル数十センチからせいぜい約3メートルのものだった。全体が茶褐色に錆び、飴のようにグニャリと曲がっていた。地中を掘り起こした際に土砂と一緒に出土したものだという。付近ではその2年ほど前にも同様に鋼材が見つかっている。少なくともこの付近の近くで、かつてのクラ地峡鉄道が走っていたことは確かと見られた。
だが、軍用列車として建設された同鉄道は戦後間もなくして徹底的な破壊がされ、タイ国鉄南部本線チュムポーン駅から分岐し、同駅を始発駅として以後のルートの正確な位置はよく分かっていない。運行区間の多くを占めたラノーン県の山中には、「クラ地峡鉄道跡地」とされる箇所が今なお複数残るというが、それが本当にそうなのかも分からない。検証もなされていない。住民の「言い伝え」があるのみだ。
そんな幻の鉄道再興の機運が最初に盛り上がりを見せたのは、1970年代のことだった。第2次大戦後、英国との講和条約「英タイ平和条約」を締結していたタイは、シンガポール港の権益保護の観点から、クラ地峡での鉄道再建や運河の建設について厳しい制限が課されていた。こうした中、米仏を中心とする民間資本が原子爆弾の技術を活用した発破によってクラ地峡を掘削し、運河を建設するとの提言を発表したのだった。
だが、冷戦最中、原爆に触れることは不安定要素が高く、政府レベルで合意に達することはなかった。環境への未知の影響も懸念された。2000年代初頭の登場したタクシン政権でも、同様に発破による運河建設計画が浮上したが、莫大な資金の捻出など課題が解決できず、いつしか立ち消えとなってしまった。再び、クラ地峡の開発構想が浮上したのは2015年になってからのことだった。
まず中国企業が動いた。同年5月、同企業が90年代半ばに内閣を組織した政界の重鎮チャワリット元首相率いる財団と地峡運河の研究開発について覚書を締結。これを中国紙が大きく報じた。習近平政権は現代版シルクロード構想「一帯一路」を積極的に推進しており、中国政府の意向であることは容易に察しが付いた。中国紙は、マラッカ海峡を経由するよりも約1200キロ航路が短縮され、航行日数も2~5日短縮できると持ち上げた。
次いで打ち上げたのが韓国政府だった。翌月、韓国の鉄道技術研究院は、フル運河の建設では費用が高額となり現実的ではないとして、旧クラ地峡鉄道とほぼ重なるチュムポーン港~ラノーン・クラブリー港の約57キロに「鉄道運河」の建設を提言した。中型までの船舶を荷や船体ごと鉄道で運ぶという斬新な計画だった。運河を掘削するよりも沿線の理解が得やすく、事業費も運河の5分の1以下、約48億米ドル(約1600億バーツ)で済むと試算された。
これらの動きに反応したのが、タイの暫定議会や王室の諮問機関枢密院だった。同議会の議員連盟はラノーン県商工会議所の求めに応じラノーン県を表敬視察。運河建設を中心とした地峡開発を約束した。枢密院でもターニン前顧問官を中心に運河建設を提唱。「戦後の国際秩序は変わった」として、今こそタイ政府が先頭に立って計画を実行するようプラユット暫定首相に求めた。
タイ政府がこれら提言をどのように受け止めているかは定かではない。プラユット首相も表向きは「優先すべきものが他にある」として現時点では消極的だ。だが、旧日本軍が先駆けて建設したクラ地峡鉄道の記憶だけは今なお連綿と生き続いている。そのことだけは間違いがない。(つづく)