タイ鉄道新時代へ
【第58回(第3部第18回)】今なお残るクラ地峡鉄道復活への期待その3
太平洋戦争中にタイからビルマ(現ミャンマー)へ送る兵士や軍需物資のバイパスルートとして建設が計画されたクラ地峡鉄道。戦後、鉄道施設は軒並み取り壊され、タイ国鉄南部本線チュムポーン駅から延伸されたレールも次々と引き剥がされて姿を消した。平行して走る国道4号線の戦後整備もあって周囲の地形も大きく変わり、現在ではその足跡を訪ねることは非常に難しくなっている。そうした中、わずかに終着駅カオファーチーの近くに往時を偲ばせる施設が残されていることが分かった。某月某日、空路スラーターニーを経由、その場所をレンタカーで訪ねた。(文と写真・小堀晋一)
南部スラーターニー国際空港から車で約200キロ。クラ地峡の尾根を越え、3時間ほど走った先にそれはあった。ミャンマーとの国境をなすクラブリー川に注ぐクロングラウン川の畔。「カオファーチー第2次世界大戦博物館公園」。色あせた看板にわずかに残るタイ語と英語の表示が、ここが玄関口であることを教えてくれた。近くの食堂で店番をしていた老婆に聞くと、もう何年も前に閉鎖されたという。「あんなところに行っても、何もないよ」。現地の人々の記憶からも、消え去りつつあるようだった。
袋小路の1本道。国道4号線から500メートルほど進み、右にカーブした川の北岸に、すっかり荒れ果てた状態で姿を現した。正面中央部には、わずかにここが博物館併設の公園であることを示す黒い石碑。その奥に簡易な屋根で覆われた蒸気機関車が一台展示されていた。車両は一面、錆で覆われており、このまま朽ち果てていくのを静かに待っているようにも見えた。型式を示すプレートなどはなく、テンダー式と思われる車体の横に白地で「962」とあるだけ。鉄道には疎い筆者(記者)には、それがどこで製造されたものなのか見当も付かなかった。
周囲を見回すと、駅舎の跡のような建物も見えた。だが、土台は崩れ始めており、外壁も一切なかった。公園の敷地を示すと思われる柵の向こうには、紫色地の看板も。わずかにかすれた文字で、「カオファーチー駅」とあるのが読めた。ここが、旧クラ地峡鉄道の終着駅カオファーチーの跡地なのか。そうであったとしても、手入れは全くされていない様子で、野生の猿や野良猫が現在の住人となっていた。
蒸気機関車の反対側には平屋建ての建物があった。ガラス越しにも、中ががらんどうなことは見て取れた。ところが、無人だと思っていたところへドアが開くと、一人の老人の姿が。この公園一帯を管理していると自称するプレームさん。もう十数年もここで、一人で寝泊まりしながら暮らしているのだと話していた。屋内の片隅には、個人のものと思われる段ボールや衣類、毛布等々。床や壁は綺麗に清掃されているが、他に展示物などは一切なかった。
「昔はここにもずいぶんと見学客が来たもんだ。だけど、今じゃさっぱりだ」と寂しそうに話すプレームさん。その説明によると、展示された蒸気機関車はクラ地峡鉄道で使われたものと同型だが、戦後、タイ政府が日本から購入したものだということが分かった。展示されてから一度も走行したことがなく、一度も整備されたこともないという。「たぶん、もう動かないだろう」
本物の旧カーファーチー駅舎も、こことは異なる場所にあったことも判明した。国道4号線を挟んだすぐ近く、クロングラウン川下流の右岸。ただ、戦後間もなくレール一式とともに取り壊され、どこにあったのか正確な位置は分からないのだという。このため数十年が経ったころ、歴史の事実を後世に刻もうと、用地の空いていたこの場所に博物館がオープン。地峡鉄道に関する品々を展示し、その様子はタイ字紙でも紹介された。ところが近年は、来場者の減少と運営資金の枯渇から閉鎖が決まり、今では来るとも分からない来場者をプレームさん一人で待っているのだという。
「いつまで管理人を続けるのですか」。帰り際にそう声を掛けてみた。返ってきたのは、「マイルー(分からないよ)」の一言。歴史を埋もれさせてはならないという思いに深く共鳴した。旧日本軍が建設したクラ地峡鉄道は、その史跡が少ないばかりか、日本側にはほとんど資料が残されていない。あるのはタイ側のものばかりだ(別表「クラ地峡鉄道をめぐるタイ側の記録」参照)。我々にはそれを残す責務があると改めて感じた。(つづく)