タカハシ社長の南国奮闘録
第61話 新人類
テクニアの前身、高橋兄弟鉄工所(1965年~)を三代目高橋弘和と二人三脚で支えてきた弟富彦が昨年暮れ、死去した。享年73歳。突然の出来事だった。検査入院をしてたった3日で他界した。残された私たちは唖然として心の整理が全くつかず、受け入れられずにいる。
半世紀以上前を振り返り、父は一番の思い出を涙ながらに語った。
「命いっぱい働いて日が変わる頃、国道沿いまで歩いていって、一杯の夜鳴きそばを2人で分け合って食べるのがやっとだった。あれが原点だった」
叔父は、どれだけ事業が発展しても、今まで支えてくれた人たちがいたということを常に大切にしていた。私はそんな叔父の言葉を受けて、亡くなる10日ほど前に、半世紀前、30年前、20年前の写真を本社に飾ったばかりだった。そこには先代の経営陣と社員たちが写っている。
私は入社してから社長に就任するまで、叔父に厳しく育てられた。理不尽でわがままな人だったが、優しい一面もあった。そんな叔父だからこそ良かったのだと思う。私が入社した頃のはやり言葉は「新人類」だった。5時から男のバブル期入社、車はすぐ新車をローンで買う時代。正直イケイケだった。
甘ったれた私にはそれくらいの指導者が必要だったのだと今さらながら実感する。おかげで経営に最も必要な本質を大切にすることを学び、心臓を鍛えることができた。戦後を生き、その時代を歩んだからこそ成せる技があるのだと思った。
ここタイの時代と環境は、日本における時代と環境とは明らかに違う。文化も違うし、言葉も違う。いま働いているタイ人スタッフの次の世代の子どもたちが就職する頃には、仕事に対する考え方もライフスタイルも違っているだろう。
少なくとも20年前のタイとは、働く姿勢や仕事への志向は違ってきている。チェンマイの田舎から出てきた若者たちがバンコクに定住し、実家がバンコクになり、子供たちが近くに住み着き、地価が上がり、高層マンションが立ち並ぶ。そのうち工場から消える工具類が並ぶ闇市も無くなり、教育を受けて高いスキルを身につけたタイ人スタッフが今以上に現場を動かす日がきて、どんどん豊かになっていくことで新たな時代の「タイ式新人類」が誕生することだろう。
たくさんの物を得られるようになり、物質的な豊かさに恵まれる一方、何か大切な物を失うようになり、そこでまた何か大切な物に気づき、先人たちに感謝をして思いを馳せる日もそんなに遠くはないように思う。
人は環境に適応する性質を持っている。タイという環境の中で、今の日本では得られない何かをあなたが感じているとすれば、それは人生においてかけがえのない財産となることだろう。