タイ鉄道新時代へ
【第64回(第3部24回)】タイからビルマへ。鉄道等輸送をめぐる旅その6
「死の鉄道」として語られる泰緬鉄道は、岩盤をくり抜いてレールを敷いたヘルファイヤーパスやクウェー川沿いの断崖に建設されたアルヒル桟道橋などタイ側の一つ一つが関心を持って語られる一方、国境を越えたビルマ(ミャンマー)側についてはその全線が廃線のままであることから、話題として取り上げられることは極端に少ない。しかし、全長約415kmのうち25%強の約110kmについてはビルマ領内にあって現在も一部にその痕跡は残っており、建設に従事したビルマ国籍者も少なくない。そこで、まだ雨季が本格的に始まる前の某月某日、空路を首都ヤンゴン(旧ラングーン)に飛び、ビルマ側から泰緬鉄道の終着駅タンビュザヤを目指すことにした。(文と写真・小堀晋一)
ビルマ領内の鉄道網はイギリスの植民地時代に建設が始まり、軌道はタイやカンボジア、ベトナムと同じ狭軌1000ミリ。現在は大半をミャンマー国鉄が運行しており、総延長はタイの約4100kmを上回る約6100kmにも上る。その一部のローカル線として、ヤンゴンの北東約90kmの地点にある古都バゴー(ペグー)から枝分かれし、同国第3の都市モーラミャイン(モールメン)を経由して東南部の港湾都市ダウェー港を結ぶのがイェー支線だ。このうち、パゴーからイェーまでの区間は戦前の1925年に開通。泰緬鉄道の終着駅タンビュザヤはその手前約100kmのところにある。
ヤンゴン中央駅を鉄道で出発し、タンビュザヤに至る直通列車は1日1往復しか存在しない。往路がヤンゴンを午後6時25分に出発し、到着するのは翌朝6時47分。2分間だけ停車して、終着駅のダウェー港には夜7時に着く。丸一日がかりの旅だ。一方、復路はダウェー港を午前5時40分に出発。タンビュザヤを経由するのは夕方6時過ぎで、ヤンゴンには翌朝6時20分に到着する。商用として利用することのできない路線だ。
列車は窓枠しかない3等列車で、風雨を避けるための金属製の可動柵があるものの、窓ガラスや網戸というものは一切ない。冷房は当然なく、天井から吊り下がった扇風機が壊れていなければラッキーという具合になる。実際に記者(筆者)も乗車してみたが、明け放れた窓から入ってくる無数の虫や吹き込んでくる季節外れの雨滴、さらには蒸し暑さで全く睡眠は取れなかった。
タンビュザヤでは、イェー支線が泰緬鉄道と分岐する地点と、2016年1月に開館したという「死の鉄道博物館」、さらには第2次世界大戦の外国人共同墓地を視察する予定を組んでいた。ところが、駅前はタクシーはおろか自家用車やバイクが一台も止まっていない有様。そこで、しばらく歩いた先の腹ごしらえをした料理店で頼み込んで、小型のバイクをチャーターしてもらった。
泰緬鉄道の分岐を示す祈念碑は、タンビュザヤ駅から南に直線で2キロ下った線路脇にあった。イェー支線から徐々にレールが分かれ、向かって左手に迫る森へと消えていった。バイクの運転手によれば、この先数キロ先までレールがあったりなかったりで、その先は深い山となって「知らない」ということだった。泰緬鉄道旧線を列車が運行する姿についても、当然に「見たことがない」ということだった。
一方、死の鉄道博物館は、分岐の祈念碑のすぐ脇にあった。ミャンマー政府と現地のモン州当局などが計画し、州当局が土地を供与。モン族の実業家に運営を委託しているということだった。500メートル四方ほどの土地に2階建ての屋内展示場と、屋外には朽ちかけた蒸気機関車が1台。プレートには「C0522」の文字があった。館職員によれば実際に泰緬鉄道で運用されたものらしく、そうであるならば東京の靖国神社に展示されているC56型と同型ということになる。
このほか敷地内には、元ヤンゴン日本人学校の校長が建立したという「世界平和の塔」という祈念碑もあった。「自他平等碑」とも刻まれた石碑には、泰緬鉄道の建設や戦争で犠牲となった人々を想う気持ちが込められていると館職員は説明していた。
分岐の祈念碑や博物館の取材を終えた後は、戦没者が眠る共同墓地を視察して午後6時すぎの夜行列車でヤンゴンに戻る予定でいた。数時間の待ち時間があり、近くの飲食店で食事をすることにした。脂っこいミャンマー料理が胃もたれを起こしていたので、タイ料理店を見つけて入った。すると、そこにはタイ語の解せる若いモン族の店主が。聞けば、隣接するカンチャナブリー県に何度も出稼ぎに行ったことがあるという。そこで、泰緬鉄道のことも聞いてみた。
「ああ、あの鉄道かい。俺の爺ちゃんも、建設に関わったよ。死の鉄道って言うけど、賃金はしっかりもらっていたそうだ」。意外な答えが返ってきた。「当時はそれぐらいしか仕事がなかったから」とも。そこで、「君たちミャンマー人は…」とさらに質問を続けようとしたところ、両手で制された。「俺たちはミャンマー人じゃない。モン族だ」。二の句が出なかった。旅行者並みの取材では理解のできない、深い歴史と人々の営みが現地にはあるのだと察した。(つづく)