タイ鉄道新時代へ
【第65回(第3部25回)】タイからビルマへ。鉄道等輸送をめぐる旅その7
旧日本軍が主導した泰緬鉄道の建設およびビルマ(現ミャンマー)鉄道との連結は、そもそもがビルマ戦線に向けた兵や軍需物資の補給を意図とし、最終的には英米連合軍による蒋介石・重慶政府への支援(援蒋ルート)を断ち切ることを究極の目的として行われた。このためこれに先立つ作戦としてビルマ全土の制圧が欠かせず、その移動手段として当時すでに約2000キロ(km)はあったとされるビルマ国内の鉄道網が大いに活用された。1944年3月から始まるインパール作戦でも鉄路は重要な輸送手段と位置づけられ、万人単位の日本兵が泰緬鉄道を経由して前線近くまで運ばれた。小シリーズの最終回は、タンビュザヤでビルマ鉄道に接続した列車がどの地を目指したのかを概観する。(文と写真・小堀晋一)
バンコクから国境の山岳地帯に向け北西に約415キロ。ビルマ第3の都市モールメン(現モーラミャイン)から見ると、そのほぼ真南約60キロの地点に泰緬鉄道の終着駅タンビュザヤはある。目立った建造物や観光施設は一切なく、わずかに西に数キロ離れた白浜のビーチを訪れる西洋人がいるだけの静かな田舎町。第2次世界大戦中、この地を日本軍が陸上物資輸送の重要な中継地として活用していたことを知る人は、今ではもうあまりいない。
日本軍はここで直接にあるいは荷台を積み替え、軌道1000ミリを等しくするビルマ鉄道で兵や物資を運んだ。首都ラングーン(現ヤンゴン)を目指す機会は意外にも少なく、もっぱら北方の要である第2の都市マンダレーが中間目的地だった。そこから支線で約50キロ、ほぼ真東に丘陵地帯を登り切った避暑地メイミョーに、ビルマ攻略作戦全般を指揮する第15軍司令部が置かれていた。
一方、マンダレーから西にはチンドウィン川に臨むマニワとを結ぶ支線が、北には中国雲南省に近いミイトキーナ(現ミッチーナ)までの約550キロに及ぶ本線がそれぞれ延伸していた。メイミョーから先についても、中国国内の激戦地である拉孟に至るラシオまでレールが延びていた。マンダレーは占拠した日本軍の戦略戦術上の重要拠点となっていた。
ビルマ国内への日本軍による侵攻は、太平洋戦争勃発からまもない42年の年明けには始まっていた。同年3月にはラングーンを陥落。これを機に連合国は一時、インド国内への退却を余儀なくされる。一方、日本軍は快進撃を繰り返し、南西部の港湾都市アキャブ作戦などを展開。ほぼ全土を支配下に納めることに成功した。当地では軍政を実施、後に傀儡国家とされるビルマ国を承認する。その背後で、ビルマ方面軍を新設するなど力による支配を強めていった。
体制を立て直した連合国の反撃が始まったのは、それから1年後の43年末のことだった。北部ミイトキーナの北西に位置するフーコン盆地で米中連合部隊が日本軍を撃破。その翌年のインパール作戦でも、ゲリラ作戦を展開するなど反攻作戦が一斉に展開された。連合国の空からの物資輸送に対し、補給を軽視した日本軍は飢餓と疫病に疲弊していった。物量の差が最終的な勝敗を決した。
続くミイトキーナの戦い(44年5月~)や拉孟・騰越の戦い(同6月~)、イラワジ会戦(同12月~)などでも日本軍は敗走に敗走を重ねた。その際、皮肉にも大きな役割を果たしてくれたのが、爆撃を受けながらも修理を重ねることでかろうじて運行を続けていた鉄道輸送だった。泰緬鉄道と接続するビルマ鉄道は、戦争の最終局面で少なからぬ日本兵の命を救うことにも貢献した。生きてタイに送り届けた貴重な路線だった。
現在のタンビュザヤ、あるいはモーラミャインからマンダレーを目指す場合、スイッチバックとなる古都バゴー(ペグー)で乗り換えが必要となる。イェー支線は1907年に一部開業。モーラミャインから先の終着駅イェーまで延長されたのは、それから約20年後のことだった。一方、ラングーンからマンダレーまでの全通は1889年。さらにその先ミッチーナについても98年までに延伸され、19世紀初頭においてビルマは世界的にも数少ない鉄道先進国の地位にあった。日本軍が侵攻した時点で、すでにビルマ鉄道は総延長2000キロを超えるほどの巨大な鉄道網を保有していた。
そのビルマ国内で鉄道の建設を進めたのが、大英帝国時代の宗主国イギリスだった。1826年には植民地支配を開始。瞬く間に路線網を広げていった。東南アジアではオランダ領東インドのジャワに次ぐ規模。ジャカルタを現地視察したラーマ5世のタイよりも鉄道敷設は早かった。当時は香辛料の採取や良質な材木などの輸送などを目的としていた。
現在のビルマ鉄道の総延長距離は約6100キロ。その原点にイギリスによる植民地支配があり、その後の日本の武力侵攻があった。そのビルマ鉄道と接続を試みたのが泰緬鉄道だった。当時の面影はもうほとんど残っていない。(つづく)