タイ鉄道新時代へ

【第54回(第3部第14回)】ラーマ5世が視察したジャワ鉄道その5

18歳の若き国王ラーマ5世(チュラーロンコーン大王、治世1868~1910年)が即位からわずか3年後に訪れた蘭印(現在のインドネシア)のジャワ島。香辛料貿易の重要な拠点とされたその島では、ちょうど近代化に向けた鉄道の建設が始まっていた。19世紀末期、中部ジャワのスラマンと西ジャワのバタビア(現ジャカルタ)。国王はそこで蒸気機関という近代文明に接するとともに、欧州列強の脅威も目の当たりにする。かつてはボロブドゥール遺跡を擁する古代王朝が栄えた文明の島。それが脆くも列強によって支配されていく様を見て、王は何を考え、何を思ったのだろうか。インドネシア・ジャワ島をめぐる鉄道の旅は3日目。同遺跡の玄関口として知られる古都ジョグジャカルタで途中下車した。(文と写真・小堀晋一)

東部スラバヤ・グブン駅を午前7時半に発車したSANCAKA83号の一等列車は、ほぼ定刻の午後零時45分過ぎに終着駅ジョグジャカルタの5番ホームに入線した。タイ国鉄の長距離列車ならば30分~1時間の単位で遅延が発生するところ、インドネシア鉄道ではほぼ正確に運行がなされていることに、まずは驚きを禁じ得なかった。段ボール箱やキャリーバッグを抱えた乗客が次々と列車を後に改札口へと向かう。その光景はどこにでもある地方の終着駅そのものだった。

地方駅とはいえ、ここはインドネシア鉄道の重要な乗換駅。ジャカルタ、バンドン、マラン(東ジャワ第2の都市)、スラバヤの主要駅に向け列車が運行している。開業は1887年。ホームは6面。構内の待合席では多くの乗客が、お目当ての次の列車を待つ姿が見られた。

ムスリムの国にあって、構内には礼拝(サラート)のための施設も兼ね備えられている。イスラムの五つの行の中で最も重要な神への祈り。早朝から夜遅くまで多くの敬虔なイスラム教徒たちがこの施設を利用する。宗教色の強い古都ならではの光景ということができるだろう。

ジョグジャカルタは中部ジャワの南岸にある古くからの都市。タイ中部の古都アユタヤと同様に、古代インドの叙事詩「ラーマーヤナ」に登場する国アヨーディヤーを語源とする。ジョグジャカルタとアユタヤ。約150年前のジャワ島訪問団の一行の中に、何か因縁めいたものを感じた人がいたとしても不思議はない。東南アジア初の鉄道建設という理由以上に、それを超えた歴史的交流が背景にあったのかもしれない。

当地は第2次大戦後の独立戦争時、臨時首都が置かれた土地としても知られている。ここを治めていたスルタンがオランダに立ち向かい、民族自決を勝ち取ったことはインドネシアでは知られた事実となっている。独立の原点がジョグジャカルタにあった。1967年から30年以上にわたり開発独裁を進めた第2代大統領スハルトもこの地の出身で、街では近年までスルタン制が近代民主制と共存をしていた。

次の乗り換え列車まで時間があったので、街に出てみることにした。良く晴れた乾季の青空。まだ昼過ぎとあって実に清々しい。駅前で客待ちをしているのは人力の三輪車。タイのそれはサムローと言い、客席は後部にあるが、ここでは運転席の前のボックス状の客席がある。原動機の付いたバイク形式のものも、ちらほらと見受けられた。

駅前を散策していると、黄色でおしゃれな幌付きの馬車ともすれ違った。近くにいた人力三輪車の運転手に「あれもタクシーか」と尋ねたが、言葉が通じたのか通じないのか、さっぱり要領を得なかった。ひょっとしたら、観光ホテルの送迎サービスかもしれないと思った。

この地方にあるボロブドゥール遺跡は、ジョグジャカルタの北約42キロに位置する世界最大級の仏教遺跡。山々に囲まれた平原の上に存在し、8~9世紀のころ完成されたとされる。観光には当地から向かうのが一般的とされ、仏教施設にもかかわらず年間100万人以上の参拝客が足を運ぶ。バス路線もあるらしいが時間が読めないため、急ぐ客はタクシーをチャーターすることが多いらしい。ところが、この日の駅前はちょうどタクシーが出払っており、車が見つかったのは午後3時も回ってから。復路への不安もあり、断腸の思いで遺跡観光を断念した。

市内散策を終えジョグジャカルタ駅に戻ったのは、陽が西に傾き始めた午後6時すぎのことだった。午後11時30分発の長距離夜行列車「MALABAR91号」の発車まで、まだ5時間もある。そう思って待合席で原稿や写真の整理を始めたのだが、時間は経過。同11時すぎには列車の入線を知らせる構内アナウンスが響いた。次なる目的地は西ジャワの避暑地バンドン。390キロ、8時間の旅だ。彼の地では、どうしても訪ねたい場所があった。(つづく)

 

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