タイ鉄道新時代へ

【第61回(第3部21回)】タイからビルマへ。鉄道等輸送をめぐる旅その3

タイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ鉄道などの輸送路のうち、最も古くから検討がなされてきたのが、バンコクから西へクウェー・ノーイ川沿いを北進し、現在のカオレーム国立公園を縦断して隣国ビルマ南東部の街タンビュザヤへ抜ける「泰緬鉄道」のルートだ。ところが、タイ側からはもちろんのこと、インドからビルマを占領した英軍においても、何度も建設を計画してはみたものの、あまりの地形の複雑さに断念。この不便さが長らく天然の要塞として両国間を隔ててきた。転機となったのは、この連載でも繰り返し触れている旧日本軍のビルマ進出。時は1941年10月。太平洋戦争が始まる2ヶ月前のことだった。(文と写真・小堀晋一)

対米開戦濃厚だった10月半ば、陸軍の第2鉄道監だった服部暁太郎中将(工兵)は、仏印北部ハイフォン付近にいた。第2鉄道監部、鉄道第5連隊、第4特設鉄道隊などを傘下に持つ鉄道建設のスペシャリスト。わずか数日前に中将に昇進したばかりだった。このころ、サイゴンにあった陸軍部隊では、後の泰緬鉄道となるビルマ連接鉄道の計画で湧いていた。開戦翌月の1月10日、服部中将は晴れて南方軍鉄道隊司令官に任命され、泰緬鉄道建設の責任を負うこととなった。

太平洋大戦勃発と同時に日本軍は、ハワイ真珠湾のほかマレー半島の要衝シンガポールに向けて進軍。この時、英印航空軍による爆撃を抑えるため、さらには来る援蒋ルート遮断のため軍事進出したのが西方のビルマだった。作戦は首尾良く進み、日本軍によるビルマ支配が完了されると、服部司令官は泰緬鉄道の路線調査を指示。タイ国鉄南部本線バーンポーンとビルマ国鉄タンビュザヤ間約420キロで調査が行われた。

間もなく鉄道建設は可との結果が報告されると、新たに第2鉄道監に就任していた下田宣力少将(東大機械卒)が中心となって南方軍を通じ鉄道建設の意見具申。こうして大本営は6月7日、「泰緬鉄道建設要綱」を告示。当初調査より若干の路線を変更し、ノーンプラドック~タンビュザヤ間約415キロにおいて泰緬鉄道の建設が正式に決定した。この時、タイ側からは建設に8年以上を要するなどとして難色を示す声も寄せられたが、戦時下の日本軍に抵抗することはできなかった。

建設はタイ・ビルマ双方から始められることとなった。6月28日にまずはタンビュザヤで、次いで7月5日にノーンプラドックで起点の距離標が設置された。雨季が空けた11月には参謀総長が建設実施を命令。日量3000トンを見込む軍需鉄道の建設がいよいよ始まった。工期は43年末までとされた。

計画に変化が生じたのは、それから間もなくのことだった。英陸軍のウィンゲート准将率いるゲリラ部隊がビルマ領内に展開。英印軍による攪乱戦が始まったのだ。これにより、雨季あけ後に本格化するであろう英印軍を含む連合国側の反攻に備え、泰緬鉄道の完成が急がれたのだった。43年2月、大本営は工期を4ヶ月繰り上げ8月末とする命令を発した。

南方軍は鉄道規格を日量3000トンから1000トンに落とす一方、新たな部隊の動員を指示。戦後の資料によると、第5特設鉄道隊や近衛工兵連隊など総勢2万人近い日本兵の投入が行われた。だが、それだけでは十分に機能せず、実施に移されたのが後に国際的な非難の的となる連合軍捕虜の大幅増員や、アジア人労務者の大量採用だった。

まずは、マレー人を中心に約7万人がマレー鉄道などを通じて主に南方から集められた。タイ国内でも労務者の調達は行われ、タイ中華総商会などの斡旋によって約2万5000人が動員された。一方、捕虜となっていた連合国側の戦闘員らの中から約5万人も建設従事者として駆り出された。泰緬鉄道建設は、最大時16万人を越える人員で行われた計算となる。

泰緬鉄道が「死の鉄道」とされるのは、その〝犠牲者〟の数だ。動員された43年の雨季は通常よりも1ヶ月も早く始まり、労務者は重労働を強いられた。6月には伝染病のコレラがピークを迎え、ここでも多くの人々が命を落とした。建設作業が終盤を迎えた9月中頃の時点で記録に残るデータから判断して、捕虜のうち8000~1万人が、マレー人労務者の2万~2万2000人が、さらに中国人労務者の約1万人が、少なくとも死亡したか逃走したとみられている。

鉄道建設はその後、工期を2ヶ月間延長し、10月17日にタイ領内のコンコイタで軌道が接続された。同25日に開通式を行っている。42年7月の着工から1年4ヶ月は、この種の工事としては異例の短さだった。だが、それは皮肉にも、わずか2年後に始まる敗残兵を迎え入れるための除幕式でもあった。(つづく)

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