ミャンマー投資の穴場か? 知られざる2つの工業団地《下》
1月号ではミャンマーの秘境とされる中東部カヤー(Kayah)州のロアイコー(Loikaw)にある工業団地を紹介した。今回は中部のマンダレー管区のメイクティラ(Meiktila)にあるメイクティラ工業団地を取り上げる。この工業団地も日本人に存在すら知られておらず、同工業団地の会長の案内で取材することができた。
メイクティラ工業団地進出企業の最も多い業種は繊維産業であり、日本の戦後賠償でミャンマーに送られて来た繊維機械が現在でも各織物工場で活躍しているのを目のあたりにした。ロアイコーの織物工場で「HIRANO」と刻印された古い機械が稼働している写真を1月号に掲載したが、この機械を何台も使っていた織物工場のオーナーが「これらの機械は日本の戦後賠償の一部として日本からミャンマーに運ばれて来たもの。HIRANOと刻印されていてもミャンマーでコピーされた機械も多いという。。起業する時にこれらをメイクティラ付近で仕入れた」と説明していた。
数年前にミャンマー第2の都市であるマンダレーのロンジー(ミャンマー民族服の腰巻)工場を訪問したときもHIRANOの機械が多数稼動していた。筆者の調べではHIRANOの機械を製造したのは名古屋にあった平野製作所のようだが、後の繊維不況時に倒産した模様だ。同社で戦後賠償の機械の技術研修を受けていた経緯については記事の最後に紹介したい。
日本企業との合弁実現に大きな期待
メイクティラは古くからの交通の要所であり、第2次大戦末期に多くの日本兵が戦死した激戦地。日本人戦没者慰霊碑が「世界平和パゴダ」とも呼ばれるナガヨン・パヤーという寺に設置され、境内には戦時中の日本軍の小型戦車も展示されている。かつて日本が大変な迷惑をかけたにもかかわらず、親日的な人が多い。工業団地の会長を務め、団地内で紡績工場などを手広く経営するゾー・ウー氏に対する突然のインタビューが叶ったが、ゾー・ウー氏は工業団地内で自ら経営する各工場を見せてくれただけでなく、製品の納入先でもある同団地内の中国の衣料工場にも案内してくれた。知り合ったばかりの記者に対して、このような取材サービスをしてくれる日本企業などあり得ない。
メイクティラ工業団地の30年間の土地使用価格は「100フィート(30.48メートル)平方メートル=930平方メートルが2,500万チャット(約180万円)」(メイクティラ工業団地のゾー・ウー会長)と、カヤー州のロアイコー工業団地に比べ2.5倍もするのは、メイクティラが交通の要所だからだろう。工業団地内の道路はロアイコー工業団地同様に未舗装だが、停電は5年ほど前から少なくなる一方だと説明された。
ゾー・ウー氏は1966年2月生まれの52歳。同団地内で4カ所の工場を経営し、メインの工場にはフレンドシップの意味がある「メイペッ」社と名付けている。同会長は「どんな分野でもよい。技術がある日本企業と組んでこの団地でなにか合弁事業を始めたい」と強い期待を表明。「メイクティラの工場にも日本製機械が多く導入されているがどれも年代物。だから私は、とりわけ新品の日本製機械を導入する最新鋭の紡績工場も日本企業と合弁して実現させたい」と熱望している。
純ビルマ族で父母ともに79歳で健在。1966年に現在の首都ネーピードー近くのイェーゼン(Yezin)大学農学部を卒業している。その後、綿(ワタ)工場を起業した。まず綿花を集荷、その種から繊維の木綿を作り、種を絞って木綿油を採る。木綿油は日本ではあまり知られないが、菜種、ピーナッツと並ぶ3大食用油のひとつであり、絞った粕は牛など反芻動物の飼料や魚の餌として売れるという。
ゾー・ウー氏が同団地内で経営する会社の中には、中国から仕入れるアルゴンガスのリフィル(詰め替え)サービスセンターもある。「大きく分けて現在4つのビジネスを手掛けており、紡績が全体の利益の7割を稼いでいる」という。メイペッ社の入り口の看板には、「バイクでおカネ貸します」と併記されていた。よく見ると工場内に二輪車がたくさん停まっている。従業員の通勤用でなく、二輪を質持(しちもつ)とする金貸し「質屋」だったのだ。まさになんでもやっているという感のあるゾー・ウー氏だけに忙しい。飛び入りで長時間のインタビューに応じてはくれたが、ひっきりなしに携帯電話に着信があり、工場見学中に待ち構えて話しかけてくる人も多い。早朝から昼食のあとも一緒だった割にはそれほど長時間の取材だったとは感じられなかった。
ゾー・ウー氏は「洗練されたハイテク技術を持つ日本の繊維関係の企業の投資を心待ちにしている。繊維関係以外のどんな分野でもかまわない。日本企業との合弁で需要がある液体酸素の工場を作ってメイクティラの病院などに供給したい」と次々と新規ビジネスのアイデアを披露してくれた。工業団地以外に関しては「メイクティラ付近の1350エーカー単位の国有地を使って太陽光発電を計画する中国など外国の調査団が私の知る限り数件すでにメイクティラを訪問しているが、できれば日本企業に手掛けてもらいたい」。
日本との縁深いメイクティラ
ゾー・ウー氏はメイクティラを代表する経済人として役所、銀行などに顔が広く、地元企業の各種相談に乗ることも多い。役所との交渉ごとはその内容や最新情報を工業団地内の工場に伝達、そして企業の意見を取りまとめて役所に伝える役割もゾー・ウー氏が担っている。
同工業団地進出企業で圧倒的に多いのが衣料関係。取材に合わせるかのように郵便物が届いたが、それを開封したゾー・ウー氏は「メイクティラの労働局からの手紙で、現在、縫製工場などで働いている熟練労働者のやる気と収入をアップさせるために検討中の技能認定制度に関する内容。この検定のためには1人の労働者につき1万5,000チャットを役所に支払わなくてはならないが、その費用をどのように捻出するかがテーマになっている」と明かした。1万チャットは現在約700円だから検定料は1人1,000円程度。これは労働者の3日分の給料に相当する。ミャンマーでは2018年に最低賃金が大幅に上昇して日に4,800チャット(約340円)になったことが、同工業団地の縫製工場経営者にとっても頭が痛い問題になっている。
ゾー・ウー氏は同じ工業団地内で拡張を続ける中国企業にも私を案内し、中国人経営者や技術指導をしている中国人工場長を紹介してくれた。同工場で生産している製品は主に欧米市場向けで、現在はポーランドと米国が多いという。ゾー・ウー氏の工場で生産している綿を入れて縫製した布を使って、子供や女性向けの防寒服、男性用パンツ、ジャケットも手掛けている。「現在、550人の従業員がいるが、慎重に需要を見極めながら1,300人の工場に拡張中だ。当社の価格競争力は高いという自信があり、日本企業から受注したい」と若い中国人経営者が語った。
2013年3月、ミャンマー第2の都市マンダレーにいた私は、ヤンゴンに車で戻る途中でメイクティラへの初訪問を計画していたが、実現できなかった。これは当時のテインセイン政権が同月22日にメイクティラに非常事態宣言を発令し、外出が不可能な状態になったため。訪問を断念した私は他ルートでヤンゴンに戻った。メイクティラの人口は30万ほどだが、その10分の1にあたる3万人以上のイスラム教徒がいる。現在も問題が拡大しているラカイン州のイスラム教徒「ロヒンギャ」の居住地区では2012年に暴動が発生し、その後ヤンゴンを含むミャンマー各地で仏教徒とイスラム教徒との衝突が起き、メイクティラでも死者が出る事態になった。
私がメイクティラをいつか訪問したいと考え続けてきたのは、親しくしていた故・テハン氏の故郷だからだ。第2次世界大戦末期、テハン氏はビルマに侵攻した日本軍の通訳として日本軍の最後を見届けた人物。メイクティラ近郊に日本軍秘密司令部があり、テハン氏はそこに務めていた。この司令部で日本語をテハン氏らミャンマー人に教えていた将校が、私の大学時代の同窓生で現在はシンガポールで大手弁護士事務所の営業部長を務めている丸茂氏の実父だったことも後に分かった。テハン氏は戦後、ミャンマーで有名な映画監督だったウツカ氏の目に留まって映画スターとなり、「ティラ・ツラ」(メイクティラのツラ)の芸名で多くの白黒、カラー映画に出演。日本軍の心ある将校役が多かった。数年前に亡くなるまでの20年間ほど、筆者はミャンマーを訪問するたびに親日家のテハン氏にお目にかかることを楽しみにしていた。
同氏は私財を投じて、メイクティラ近郊での日本による日本兵の遺骨探しを手伝ったこともある。日本は1954年にミャンマー(当時はビルマ)と720億円(当時の2億ドル)の戦後賠償を締結した。これに関連して、ミャンマーに賠償案件として送られることが決まった織機の技術習得を目的とするミャンマー人研修団が組織され、テハン氏はその通訳として日本に滞在。ミャンマー帰国後もこれら日本から運ばれた織機がきちんと稼働できるまで支援を続けた。