タイの「和牛」 東北部に肥育農家が急増
写真・文 アジア・ビジネスライター 松田健
近年までのタイでは隣国ミャンマーに似て、肉料理は鶏や豚が中心であり、牛肉を食べる人は比較的少なかったように記憶している。その理由の一つは、農家の多くで田畑を耕す牛を飼っており、牛は家族のような存在なのだから、牛を食べようとしなかったようだ。だが、タイから日本に出かけるタイ人観光客が急増してきたことを背景として、タイで日本食ブームが高まり、日本式の焼肉、しゃぶしゃぶ、すき焼きなど、牛肉メニューを出すレストランも急増して、牛肉を食べるタイ人が増えている。例えばバンコクのオンヌットの焼肉食べ放題店である「ベストビーフ」はベトナム人経営だが、「コロナ」下でも客があふれ、整理券を受け取って席があくのを待たなくてはならない状態だ。 タイの経済成長に伴って農家がクボタのトラクタを買えるようになり、トラクタの導入が進む一方で、田畑からは農作業をする牛が消えた。そして農作業の機械化で生じた時間に「和牛」肥育を始める農家がタイ東北部で急増し、日本の参加を募るタイ農家もある。 オーストラリアなどからの牛肉輸入に比べると高価な日本からの輸入和牛は微々たるものだが、「神戸ビーフ」とか「ワギュウ(和牛)」という日本語はタイの農村部の果てまで知れ渡っている。タイで「和牛」を肥育する農家が増えたと言っても、肥育している牛のほとんどは和牛に欧州を元祖とする乳牛(ホルスタイン)や耐暑性があるインド原産のブラマンなどを掛け合わせた和牛交雑種。古くからタイ産の牛肉も食べてきた東北部ではコストが安いタイの牛を肥育する人もいる。 かつてタイの王女が来日された時、雌雄の和牛を献上したことがあった。その後に日本からの和牛輸出は、国産牛保護の観点から禁止されている。しかし世界的にも人気が高い和牛を中国で肥育しようと、大量に日本の牛の精子を持ち出そうとした業者が2019年3月に逮捕されたりしている。中国の意向を受けたタイ人バイヤーが東北部で牛の買い付けで暗躍している話も東北部で聞いた。
スリン県の県庁所在地であるスリン市のサラクダイ区で牛の肥育に取り組むクン(キアンドゥアン)さん(1971年7月3日スリン生まれ)は、150人のメンバーを抱える「サラクダイ区包括的スリン神戸和牛コミュニティ・ビジネス・グループ」の代表を務めるタイ人女性。110頭の和牛交雑種を肥育しているクンさんの肥育園を訪問した。クンさんによれば、「30キロ近い体重で生まれる牛が120キロほどに育つ生後4~5カ月で買い入れます。そして30カ月ほどの肥育をして、700キロから800キロに育ててから、屠(と)畜場に出している」という。 クンさんの「和牛」肥育では、タンパク質が多い草、稲の藁(わら)を干して発酵させたものをメインに、トウモロコシ(コーン)、キャッサバ、地元で採れるジャスミンライス(香り米=カオホンマリ)の砕米やぬか(糠)、大豆カス、パーム椰子の搾りカスなどを混ぜて牛が好む餌にして与えているが、ビタミン剤を入れて栄養価を高めている。トウモロコシに米ぬかを混ぜることで、「サシ」と呼ばれる肉の赤身に網の目のような脂肪が増えて高く売れる牛になるとクンさんは説明した。 肥育の初期の餌として「40%ほどの草とトウモロコシなどは60%程の比率で育て、18カ月が過ぎた頃から、草類は30%に減らします。そしてトウモロコシなど、草以外を70%まで増やすのは牛の胃に病気を発生させないため」という。餌の仕入れ価格はトウモロコシがキロ10バーツ、草類はキロあたり5バーツという。
スリン和牛でGI認定目指す
クンさんらは、タイで知名度が高いスリン県産のジャスミンライスを入れた餌で和牛を育てていることから、『スリン和牛』と名付けている。『スリン和牛』はスリン産品としてGI(Geographical Indication=地理的表示)認定の取得を目指している。GI認証はワインのブランドなどを守るため欧州で始まった商品名、知的所有権を保護する世界的な制度。日本では「神戸ビーフ」や「夕張メロン」などがGI認定されている。タイでは日本よりも早く、2003年からGI制度の取得に力を入れ始め、「ジャスミンライス」などがGIとして認証されている。タイでのGI認証は商務省の知的財産局(Department of Intellectual Property)が管轄しており、クンさんはスリン県商務事務所を窓口としてGI認証の手続きを進めているが、地元の大学からも『スリン和牛』が認証されることに向けた支援を受けているという。 スリン県の隣のブリラム県で「和牛」を肥育しているパンリット氏の家も訪問した。同氏は、「ブリラム県には『和牛』肥育を行う22のコミュニティ(共同体)があり、計300人の農家が和牛交雑種牛を肥育している。生後4~5カ月の牛を買って、36カ月育ててから屠場に出している」という。同氏の家では牛の交配も行っている。「人工授精士資格を持つ公務員と契約して一定期間常駐してもらう。すべてを和牛交雑種の授精としてここで実施しているが、和牛と乳牛の交配がベストだ。3年間で2頭を産ませることを目標にしている」とパンリット氏が説明した。
肥育に日本の参加を募る
2018年10月、クンさんの夫のサワクン氏、ブリラムのパンリット氏ら東北部の「和牛」肥育農家の5人が、自費による視察団を組織して九州の肥育農家を視察した。「この視察で多くを学べ、帰国後に餌や牛舎の改善に取り組むことができた。屠(と)畜場の見学だけが叶わなかったので、次回は是非行って学びたい」とパンリット氏らは期待している。 クンさんは、「スリンで和牛を肥育する環境は整っています。タイで和牛産業に投資したい日本人がおられたら、是非連絡してください。バンコクの整備された屠殺場との関係も保っており、そこからASEAN各国に牛を輸出することも可能です」とクンさんは説明する。やる気にあふれるタイ東北部の肥育農家と日本人が組んで新事業を展開する価値はありそうだ。 日本と、肉牛の肥育農家が多いタイ東北部との間では双方の農家や学者、研究者などによる各種交流が活発に行われている。クンさんの肥育場でたまたま日本からスリン県とブリラム県などの肉牛肥育農家の視察に来ていた大学教授らのグループに出会った。この教授は、「牛肉の消費も増えている東南アジアの中心的な国であるタイの和牛事情を日本は常時調査しておくことは重要だ。日本の和牛に対するタイでの評価をあげたい」と語った。同教授らはクンさんの仲間のタイの和牛の肥育農家から専門的な質問攻めだったが、「餌の量を加減し、育てる牛のサイズを揃えることが最も重要」「餌のコストを低減するためには肥育初期の餌で大豆カスなどを減らした方がよい」などという専門的なアドバイスをしていた。 この日本人の畜産専門家をタイ東北部各地の肉牛の肥育農家に案内していたのは、京都大学で博士号を取得しているタイ東北部コラート(ナコーンラーチャシマー県)にあるスラナリ大学バイオテクノロジー学部のランサン(Rangsun Parnpai)教授。同教授は「かつて自由に合法的に和牛を買えた時代にタイにやって来た和牛が増えていった。日本の専門家が様々な指導を続けていてくれることはありがたい。和牛をさらにタイで広めていきたい」と語った。 ランサン教授の指導で「コボリ(小堀)」と名をつけた和牛がタイで広まった。「コボリ」はタイ人なら誰もが知っている日本人名。戦時中を舞台にした「クーカム」という名の小説が映画化されてヒットしたが、そのドラマの主人公である心優しい日本軍の将校の名が「コボリ」であり、タイ人には「コボリ」人気が高い。和牛と直接の関係はないことだが、タイでは1970年代から80年代にかけて、日本製品の氾濫に対して反日運動が吹き荒れた。しかしいつしか反日運動は消えた。そして、アニメや日本食に見られるように、大変な日本ブームになって今日に至っている。筆者はタイで反日運動が消えたのは、架空の人物である「コボリ」による影響が大きかったと推察している。
「地元で和牛フェアを実施」
2019年の12月にスリンに出かけた時には、クンさんの地元であるスリン市サラクダイ区の産品の普及活動として、同区にあるロビンソン・ショッピングセンターの駐車場で「サラクダイ良いものフェア」というイベントが、若い区長の司会により盛大に開催されていた。このフェアでのメインイベントが子供と大人の部に分けて行われた「和牛の早食い競争」で、優勝、準優勝した人への賞金の授与式も区長自らが行っていた。この「和牛の早食い競争」に使われた山のようなビーフは、クンさん自身が会場内で忙しく焼いていたので、話しかけることは遠慮した。 クンさんと同年生まれである夫のサワクン氏(1971年3月6日生まれ)も、「サラクダイ良いものフェア」で、自らが飼っている馬を会場に持ち込んで地元の子供らに無料の乗馬体験してもらうイベントを行い、同フェアを盛り上げていた。このイベント中に、サラクダイ区の若手区長のマーノップ氏と何度か立ち話しすることができたが、「当区は和牛肥育だけでなく、ハーブのラーニングセンターもあるなど健康志向が高い区であることを自慢したい。『スリン和牛』も、区の重要産業として応援していきたい」などと語った。 コロナ禍で牛肉市場が縮小すると見たクンさんは、サラクダイ区でしゃぶしゃぶの食べ放題店を始めたが、一躍スリンの人気レストランになっている。そしてコロナ感染防止でレストラン内での食事が禁止された時期には牛肉入り弁当の持ち帰りやデリバリーサービスで乗り切った。コロナ第2波がスリンにも押し寄せている2021年の年初時点では、「感染を防ぐために店内の座席を減らし、幸い乾季なので店の外に席を増やして客を収容している」と人づてにクンさんから聞いた。
2021年3月1日掲載